経験曲線を効かせる
「この前の長さくらいでいいですか?」
「この前がどのくらいかすっかり忘れたけど、任せる」
オレは濡らした髪をクシで梳きながら、髪を切り始めた。
「経営コンサルタントから映画監督になる人って珍しくないですか?」
いい話のふり方だ、と我ながら思った。
立三さんが経営コンサルタントだったことも、今、映画監督だということも疑わない。
しかし、どちらの仕事ぶりも理解している。
サッカーのキラーパスみたいな絶妙の質問だと思った。
フーッと大きく息をついた後、立三さんは「アホやろ。普通、そんなことするヤツおらん。途中で仕事替えたら、〈経験曲線〉の効果が全く使えんやろ」と聞いたことのない用語を言った。
「経験曲線?なんすか、それ?」
「簡単な話や。同じ作業を続けて今までの累積経験量が2倍になったら、習熟によって効率性が改善し、コストが2~3割下がることに誰かが気づいて、法則やいうことになったんや」
パッと聞いても、オレにはよくわからなかった。
立三さんはそれに気づいたようで、説明を加えてくれた。
「同じ理容師が100人の髪を切った時より200人の髪を切った時のほうが効率が2~3割、改善するということや。ある程度数をこなすとハッキリ出てくる。5人、10人では無理やけどな。だから、なんでも続けることが大切なんや。理容の世界で何年もやっている君には、釈迦に説法かもしれんけどな」
「それと経営コンサルタントから映画監督になるのと、どう関係があるんですか?」
「途中から全く違うことを始めるのは、一度溜め込んだ技術を全部捨てることやからな。続けることが大事やと言っておきながら、続けるのをやめたんはアホや」
立三さんは、まだ経営コンサルタントの仕事に未練があるのかもしれない。
【経験曲線】
製品の生産量の増加に伴って単位あたりの総コストが低下していくことを示した曲線。一般に累積生産量が2倍になると単位コストが20~30%減少する関係にある。
(つづく)
作家、映画監督、経営コンサルタント 1966年、京都生まれ。京都大学経済学部卒業。(株)電通を経て渡米し、カリフォルニア大学バークレー校にて経営大学院にて修士号(MBA)取得。シリコンバレーで音声認識技術を用いた言語能力試験などを行うベンチャー企業に参加。大学院在学中にアソシエートプロデューサーとして参加した短編映画『おはぎ』が、2001年カンヌ国際映画祭短編部門でパルムドール(最高賞)受賞。帰国後、経営コンサルティング会社を経て、(株)Good Peopleを設立。キャラクターの世界観構築など、経営学や経済学だけでなく、物語生成の理論、創造技法や学習技法を駆使した経営支援、経営者教育を手がけている。著書は、『プロアクティブ学習革命』(イースト・プレス)、『次世代へ送る〈絵解き〉社会原理序説』(dZERO)ほか。映画は、初監督作品の長編ドキュメンタリー『AGANAI』の公開に向けて奮闘中。京都在住。