長時間労働に追われていた新聞記者の井上陽子さんは、39歳でデンマークに移住した。そこで目にしたのは、誰もが早い時間に仕事を切り上げ、自由な時間を謳歌する短時間労働社会だった。「午後4時台に帰宅ラッシュ」――そんな“ゆるい”働き方なのに、デンマークの1人当たりGDPは日本の約2倍。賃金水準も高く、競争力ランキングは世界No.1。なぜ、日本とここまで働き方や暮らしぶりが違うのか? この記事では、話題の書籍『第3の時間──デンマークで学んだ、短く働き、人生を豊かに変える時間術』から、特別に一部を抜粋して紹介する。

労働生産性が高いデンマーク、なぜ「働く人の市場価値」が上がりやすいのか?写真:井上陽子

大学・大学院も学費無料で、給付金まで支給

 国全体の生産性を高めるためには、働く人数の多さだけでなく、人材の質を高めることも重要だ。一人当たり労働生産性(2023年)は、デンマークの15万2200ドルに対し、日本は9万2700ドルと、大きな開きがある

 一人当たり労働生産性は、1990年の時点では、日本(3万9300ドル)がデンマーク(3万53000ドル)を上回っていたことを考えると、この30年間で両国の間に大きな開きが生まれたことになる。

 いったい何がこの差を生んだのか、と思うわけだが、その一つが教育だ。

 ただし、教育と言うと、日本でまず思い浮かべるのは、初等・中等教育ではないだろうか。この段階の日本の教育は国際的にも評価が高く、15歳を対象とした学習到達度調査(PISA)では、数学、読解、科学の3分野すべてで5位以内。一方のデンマークは、PISAのランキングは13~20位と、さほどふるっていない。

 デンマークが評価されているのは、大学や大学院、職業訓練のための成人教育などを含む高等教育の方である。教育費は、大学や大学院を含めてすべて無料であり、親と同居していない学生は、月々7086デンマーク・クローネ(約16万9000円、2025年基準)の給付金(返済不要)を受け取りながら学んでいる。学びたい人が、経済的な理由で大学進学を断念することがないようにしているのである。

 デンマークでは、学部卒では就職が難しく、大半の人が大学院まで進む。このため、大学や大学院に通いながら受けられる給付金の支給期間も、70カ月分(5年10カ月分)に設定されている。給付期間は短縮される予定とはいえ、授業料が高額で学生がローンを抱えざるを得ないような他の国の状況と比べると、そもそも学費が無料である上に、給付金まで受け取って学べるという手厚さに驚くのだ。

働く人の市場価値が高まりやすい仕組み

 ここまで寛大に教育費の多くを国が賄う理由は、人材の価値を上げることを、国の重要な役割と捉えているためだ。

 成人教育にも力を入れていて、スキルアップを目指す人が政府の補助を受けて安価で学べる職業訓練プログラムが、数千というレベルで用意されている。こうしたコースはブルーカラー向けのものが多く、労働組合と経済団体、政府の三者が連携して設計し、学びの内容が仕事につながりやすいのも特徴だ。

 ホワイトカラーの人々が学ぶ機会も、労働組合が提供するプログラムや、企業が従業員向けに提供する外部のオンラインコースなど、多数用意されている。

 そもそも、人々が学び続ける動機が強いのは、デンマーク人の雇用に対する安心感が、勤め先の企業や組織で生き残ることよりも、スキルアップによって市場価値を保ち続けることから来るためだ。

 これは、転職を前提とした働き方であることが大きい。年功序列の慣習がなく、組織内で昇進していけるような大企業も少ないために、転職が、給与アップや職務内容のレベルアップの手段になっているのである。

 先に説明したフレキシキュリティ制度の後押しもあって、民間セクターでは1年のうちに4人に1人が転職するという、流動性の高い労働市場ができあがっている。

[フレキシキュリティ]:柔軟な労働市場(フレキシビリティ)と、十分な生活保障(セキュリティ)を組み合わせた造語。

 5~7年程度で転職するのはごく一般的で、若い世代になるともっと頻繁である。転職の動機は、もっと別の挑戦をしたいとか、新しい上司とそりが合わないなど様々だが、それで同業他社に移ろうという時でも、給料や肩書が不利になることはない。

 だからこそ、その勤め先だけで評価されること(特定の人物に好かれるなど)よりも、その時々の労働市場で求められるスキルを磨き、どの企業でも価値を生み出せる人材となることに意識が向きやすいのだ。

英語力と国際性が人材の質を押し上げる

 また、英語力の高さも有利に働いている。

 成人の英語力を比較した国際ランキングでは、デンマークをはじめ、北欧諸国が常にトップ周辺に並ぶ。デンマーク人の英語力が高い理由として、彼ら自身がよく挙げるのが、テレビや映画などの音声吹き替えがない、という点。そして、吹き替えがあるドイツと比較しながら、「だからドイツ人は英語がうまくない」と付け加えたりする。確かに、英語力の高いオランダや北欧諸国は、英語音声を吹き替えにせず、字幕をつけて放映してきた特徴がある。

 それはさておき、特にデンマークのビジネスの現場では、英語が頻繁に使われているのだが、これは、多くの企業が事業の国際展開を見据えているためだ。「ボーン・グローバル」と言われるスタートアップ企業は特にその傾向が強く、会社の共通言語を英語にし、英語圏から優秀な人材を採用している。

 こうした英語力の高さは、人材全体の質の底上げにも一役買っている。

 IMDのブリス教授は、英語力が高い国の利点は、人材プールの質の向上だと指摘した。人々が積極的に海外で経験を積み、海外からも才能ある人材を呼び込める相互作用が起きるためだ。

 デンマーク政府は、海外からやって来る高度人材に対しては、税金の優遇制度も用意している。デンマークが欲しい分野の海外の研究者や、月収が7万8000デンマーク・クローネ(約187万円)以上の外国人の場合、最長7年間にわたってデンマーク人よりも安い税率で優遇しているのだ。デンマークは世界的にも移民に厳しい国なので、そんな優遇制度があることに驚いたのだが、国として欲しい人材かどうかで線引きする姿勢は、ある意味、とてもわかりやすい。

※本記事は、『第3の時間──デンマークで学んだ、短く働き、人生を豊かに変える時間術』を抜粋、再編集したものです。本書中の円換算額は、2025年10月31日時点の為替レートによります。