弱さもギフトである

 すべての人はそれぞれ固有の仕方で「天才」であるというのが僕の考え方です。身体能力が高いとか、IQが高いとかいうのは、単に「計測しやすい才能」というのに過ぎません。ほとんどの才能は簡単には計測できない。だから、「ない」と思われている。でも、「ある」んです。それを検知して、活用する手立てにいろいろな工夫が要るというだけで、あることはあるんです。

 僕は今、武道家を名乗っております。自分の道場を持ち、弟子も何百人かいて、その月謝で生計を立てられるまでになりました。でも、もともと心臓に障害があって、身体が弱く、運動が苦手な子どもでした。身体が弱いのに武道家になった。なぜなれたかというと、「僕は身体が弱い」ということを「天賦の才能」だと考えるようにしたからです。

 身体が弱いので、生命力を損なうような外部からの入力に耐えることができない。不快なものに対する受忍限度が一般人よりもはるかに低い。厭なことがあると、すぐに死にそうに弱り切ってしまう。だから、「不快なことを避ける」ことが人生の一大重要事となりました。他の人にとっては何でもないことでも、僕には耐えられない。ですから、「気分の悪い人間」であっても、「気分の悪い場所」であっても、「気分の悪い流れ」であっても、人より先に分かる。ここにはいてはいけない、この人と関わってはいけない、それをしてはいけない、ということがわかる。弱いから分かるのです。他の人が我慢できることが僕には我慢できない。だから、他の人が感知しない微かなネガティブな入力にも反応してしまう。反応することができる。「厭なこと」に対する感受性が鋭い。だから、大きなトラブルに巻き込まれることがない。不快な人間関係に巻き込まれて厭な思いをするということもない。そんな関係になる遥か手前で逃げ出してしまうから。

 武道的な身体の使い方においてもそうです。わずかな「こわばり」や「詰まり」や「緩み」や「ずれ」が耐え難く不快に感じられる。だから、何とかしてその不快感を緩解し、消したいと思ってあれこれ工夫する。普通の人だったら「何でもないこと」が気になって仕方がない。だから、普通の人より反応が早い。普通の人がしないような変な身体の使い方をする。

 弱さもギフトなんです。ある種の、身体的な欠陥は、それによって思いがけないところに代償的な機能を生み出している。

 古代ギリシャの吟遊詩人たちは多くが盲目でした。詩人として大成するために自ら眼を傷つけて失明した人さえおりました。おそらく視覚がないことと長文の詩を暗唱する能力の間にはトレードオフの関係があったのでしょう。

 僕の合気道の道場に来る人たちは、身体能力は人それぞれです。でも、僕はひとりひとりがある意味で天才だと思っています。才能というのは、本質的に「余人をもっては代えがたいもの」ですから、才能を比較して、その優劣を論じるということはありえない。そのような際立った個性なわけです。だから、比較しない、格付けしない、数値化しない、競争させない。

 花が育っていくみたいなものです。種子を植えて、土から芽が出てくるとき、何の花が咲くのか僕も知らない。だから、今から3週間で5センチ伸びろとか「達成目標」を掲げるわけにはゆきません。どういう花が咲くのか分からないんですから。速成なのか晩成なのか、一年草か多年草かもわからない。そもそも花が咲くのかどうかもわからない。ただ、経験的に言って、だいたいの種子は陽に当てて、お水をあげて、肥料をあげていると育つということは分かっていますから、それをやる。でも、開花するのはしばしば僕の見たことのない花です。そういう未知の花が次々と開花してゆく風景というのは見ていて大変楽しいものです。だから、やめられない。

贈り物はいつでもミスマッチ

 ということで贈与についての所見を申し上げました。以上は決して僕の妄説ではありません。マルセル・モースやマリノフスキーやレヴィ=ストロースなどの先賢の知見を分かりやすくパラフレーズしたものです。机上の空論ではありませんので、ご心配なく。

 クリスマス・プレゼントの季節ということで、贈る人側はどんなことを考えて贈るべきかという質問が編集部からありました。相手が欲しい物をいくら考えても必ず外します。ぴたりと当たることはありえません。「これ、ちょうど欲しかったものなの!」と言ってくれたとしても、それはリップサービスです。でも、それでいいんです。プレゼントの妙味というのは、「考えて、考えて、考えた末に外す」というところなんですから。必ず微妙に外れるんです。欲しい物に確かに近いんだけど、ボール1個はずれたみたいなものの方がいいんです。もらった方が「もしかしたら、私がほんとうに欲しかったのはこれかも知れない」と思い始めるような微妙なずれがいいんです。それによって贈られた人自身の「欲しいもの」のフィールドがちょっとずつ拡がってゆくような贈り物が生成的な贈り物だということになるのだと思います。

 贈り物はいつでもミスマッチ。これはすごく大事な教訓です。ミスマッチでも、懲りずに贈り続け、懲りずに受け取り続ける。それこそが贈与という行為の真に人間的な意味だと思います。

内田 樹 / TATSURU UCHIDA
1950年東京都生まれ。哲学研究者、思想家、倫理学者、コラムニスト、翻訳家、武道家、神戸女学院大学名誉教授。京都精華大学人文学部客員教授。合気道凱風館館長。 東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。学位は修士。神戸市で武道と哲学研究のための学塾・凱風館を主宰。合気道七段、居合道三段、杖道三段。