テニスという競技はとても過酷である。時速百数十キロのサーブを捉える瞬発力に、時に2時間を超える長丁場を耐え抜く持久力、さらに言えば、世界中を転戦する逞しさも必要とする。そして、何よりも初めから世界と戦うことが前提となっている競技なのである。そんななか、世界ランク4位まで上り詰め、46歳まで現役を続けた伊達公子さんは特筆すべき存在である。最高峰のギフトを備えた伊達さんに話をうかがった。

写真=桐島ローランド スタイリング=西尾妹子 
グルーミング=小菅 孝 撮影協力=アンダーズ 東京

小学1年生、引っ越し先近くのテニスクラブで

─ テニスは、いつ頃始められたのですか。
 小学校1年生の時です。きっかけは、たまたま家が引っ越しをして、引っ越し先の近くにテニスクラブがあったので、そこに両親が健康のためにということで通い始めたのです。

 私はちょうど小学校1年生で、学校も早く終るし、まだ小さかった私は親について行ってました。その頃は、テニスをするというより親が終るのを待っている感じだったんですが。

テニスクラブ
京都市北区、北山の麓にある「テニスクラブセブンスリー」。小学校1年生の伊達さんは、ここでそのテニス人生をスタートさせた。30年以上の歴史を持つ現存するクラブで、ジュニア部門もあり、レベルに応じたクラス編成でレッスンを行っている。

─ 最初は見学してたのですか。
 最初は観てましたね。でも、身体を動かすのは小さい時から嫌いじゃなかったし、観てるだけじゃつまんないので、見よう見まねでラケットを持って、やり始めた感じですね。

─ 厳しい感じではなかった。
 会員制のクラブだったので、何時から何時までっていうレッスンスタイルでもなかったのです。比較的ほんわかとしたクラブだったので、遊びでしたね。

 で、徐々にそういう時間が増えていった時に、たとえば普通に友達と遊んでると、親に5時には帰ってきなさい、とか言われるんですけど、テニスコートにいる時だけは、そういったことを言われなかったので、私の中では最高の遊び場だという認識でした。ずっと遊んでいられる場所なので、コートに行くのが楽しみでした。

─ いま、よく子供たちが必死にやってるテニススクールとは違うのですね。
 全然違いますね。まだ、そういったスクールがない時代だったんですかね。レッスンで、1日の中にジュニアレッスンという枠があったとしても、レッスンが終ると、また普通にコートに戻ってテニスをして、というのが許される環境でしたね。

─ 初めてラケットを持ってテニスを始めたとき、周りの子供よりうまいという感じでしたか。
 いや、全然そうではなかったですね。ただ、運動神経だけは悪い方ではなかったので。学校で走っても大体1番だったし。足は速いし、マラソンやっても校内で、男の子が交じってもトップにいるし、縄跳びやってもできるし、跳び箱やってもできるし。

 運動神経だけは確かに良かったんですけど、テニスが誰よりもずば抜けて早く上手くなったというわけではなかったですね。普通でした。悪い方でもないと思いますけど、小さい時から才能がある、と言われるほどではなかったです。