宮永俊一・三菱重工業社長が異例の続投宣言をした。社内外の期待を一身に背負って改革に打ち込んだはずが、成果は芳しくない。どこに宮永重工の誤算があったのか、全5回の連載を通じて明らかにする。第1回は、宣言後初となる独占インタビューをお届けする。 (「週刊ダイヤモンド」編集部 新井美江子)

──2月6日に、社長続投を表明しました。三菱重工業の慣例では任期は4~5年。異例の6年目へ突入します。主力の火力発電事業の低迷や、国内初のジェット旅客機(MRJ)の開発遅延など大変な時期ではありますが、長期政権を決めた理由はどこにありますか。

みやなが・しゅんいち/1948年福岡県出身。72年東京大学法学部卒業、三菱重工業入社。2000年に製鉄機械事業の生き残りを懸け、日立製作所と合弁会社を設立し、同社社長に就任。06年に三菱重工に呼び戻されて不振事業を多く抱えていた鉄構建設事業本部の事業整理に奔走。08年、機械・鉄構事業本部長。11年に社長室長に就き、大宮英明前社長の右腕として構造改革をけん引。13年、約40年ぶりに事務系出身の社長となった Photo by Kazutoshi Sumitomo

 一つ一つの問題を解決するだけなら、会長となり後進の社長に「これとこれをやって」というふうに私が仕事を割り振れば乗り切ることができると思うんですよね。

 だけど、今は三菱重工の全体の方向性を考えないといけないとき。単に一つ一つの事象を解決すればいいステージではないのです。

 木村(和明副社長)さんたち幹部ともよく話すんですけど、これまで事業構造を変革する中で、三菱重工が問題として抱えていた「サイロ(たこつぼ化した縦割り組織)」はかなり壊すことができたんですよ。重要なのは、構造改革前の状態に“リバウンド”しないようにすること。それをやり遂げるために続投を決めました。

──サイロですか。宮永社長は、就任前から事業本部長や社長室長として三菱重工の構造改革をけん引してきました。危機感の発端はどこにあったのですか。

 三菱重工は、1990年初頭から不況による国内市場の縮小に直面するとともに、社内的にも技術の成熟化に直面しました。三菱重工でないと造れない、というものがだんだん減ってきた。その状況を脱却するために、より高度な技術を持つ製品を追求していった。