つまり命の価値が、被害者の立場や状況によって変わる。ならばその瞬間に、近代司法の大原則である罪刑法定主義が崩壊する。だからこそ刑事司法は意識的に、被害者遺族の心情とは一定の距離を置いてきた(意味なく被害者の写真を法廷に持ち込むことを禁じていたわけではない)。

 でも不特定多数の殺傷を狙ったオウム真理教による地下鉄サリン事件以降、自分や自分の家族も被害者になったかもしれないとの危機意識が刺激されたことで被害者遺族への注目や関心が急激に高まり、共有化された被害者感情は罪と罰のバランスを変容させながら厳罰化を加速させ、民意から強いバイアスをかけられた司法は、原理原則よりも世相を気にし始めた。

 なぜなら世相が望む刑罰より軽い判決を下したら、今度は自分がバッシングされるのだ。裁判所内の出世にも響くかもしれない。こうして厳罰化はさらに加速する。つまりポピュリズムだ。

あなたは本当に被害者遺族の
思いを想像できるのか?

 次に「被害者遺族の身になれw」と書いた人に訊きたい。ならばあなたは、本当に被害者遺族の思いを想像できているのかと。

 自分の愛する人が消えた世界について、確かに想像はできる。でもその想像が、被害者遺族の今の思いを本当にリアルに再現しているとは僕には思えない。あなたはその思いを自分は本当に共有していると、胸を張れるのだろうか。ならばそれこそ不遜だと思う。

 被害者遺族の思いを想像することは大切だ。でももっと大切なことは、自分の想像など遺族の思いには絶対に及ばないと気づくことだ。犯人への恨みや憎悪だけではない。多くの遺族は、なぜ愛する人を守れなかったのかと自分をも責める。あのときに声さえかけていればと悔やみ続ける。

 その辛さは想像を絶する。地獄の思いだろう。その思いをリアルに想像することなど、僕にはできない。とてもじゃないけれど、「遺族の身になれ」などと軽々しく口にはできない。

 その前提を置きながら「自分の身内が殺されてから言え」とか「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書く人に言うけれど、もしも僕の身内が誰かに殺されたら、僕はその犯人を激しく憎むだろうし、死刑にして欲しいと思うかもしれない。当たり前だ。だってそのときの僕は当事者になっているのだから、スタンダードが変わって当然だ。