「仕事相手が全員年下」「自己模倣のマンネリ地獄」「フリーの結婚&子育て問題」……Twitterで話題を呼んだ〈フリーランス、40歳の壁〉。本物しか生き残れない「40歳の壁」とは何か、フリーとして生き抜いてきた竹熊健太郎氏がその正体に迫ります。著書『フリーランス、40歳の壁』では自身の経験のみならず、田中圭一さん(『うつヌケ』)、都築響一さん、FROGMANさん(『秘密結社 鷹の爪』)ほか、壁を乗り越えたフリーの話から「壁」の乗り越え方を探っています。本連載では一生フリーを続けるためのサバイバル術、そのエッセンスを紹介していきます。
 連載第5弾は、FROGMAN×竹熊健太郎対談! 『菅井君と家族石』が大きな話題を呼び、一躍FLASHアニメの寵児となったFROGMANさん。その後も代表作『秘密結社 鷹の爪』が大ヒット、東証一部上場のDLEでクリエイティブ部門のトップを務めています。実写映画業界から働き始めたFROGMANさんは、選択する余地もなくフリーとなり、「30歳の壁」に直面したと言います。年収60万円の時代から、いかにビジネスモデルを構築し現在にいたったか、その秘密に迫ります。一生、フリーを続けるためのサバイバル術がここに!

『秘密結社 鷹の爪』『菅井君と家族石』に通底する
最強のビジネスモデル。

竹熊健太郎(以下、竹熊) 最初に作ったアニメから「出資者を募らない」という制作態度を徹底していたんですね。

FROGMAN そうですね。『菅井君と家族石』のソフト販売も自分のサイトでやりましたし。全10話のうち、8話を無料公開して残り2話を収録してDVDを売ったんです。結果としては5000枚売れたのでよかったです。

竹熊 そこで手応えを掴んだ?

21世紀に生き残る「フリーランス」の条件――FROGMANの場合。【後編】FROGMAN(フロッグマン)
CGクリエイター、声優、監督 / 株式会社ディー・エル・イー取締役
2006年に「秘密結社 鷹の爪」を地上波で発表した後、2007年には劇場公開。その後、テレビ・映画シリーズを次々と公開。独自の世界観とプロデュース手法が人気を呼び、有名原作のパロディ化によるリプロデュースにも従事。2017年秋、ハリウッド屈指のDCスーパーヒーローたちと鷹の爪団のコラボレーション映画「DCスーパーヒーローズvs鷹の爪団」を公開。その他、2018年4月からTBSラジオ「AI時代のラジオ 好奇心プラス」のMCを務めている。

FROGMAN そうですね。売れたのもそうなんですが、広告のお話も多くいただいたんです。リクルートとかから企業の広告としてこういうのを作ってほしいとか依頼が来ました。島根のよく分からない男の元に依頼してくるんですから、それだけ他にライバルがいなかったんです

竹熊 そして2005年に「JAWACON」(※個人制作アニメの見本市)に参加をして、DLE社長の椎木隆太さんとお知り合いになるんですね(※FROGMANさんは現在、DLE取締役)。

FROGMAN そうです。当時は『スキージャンプ・ペア』(真島理一郎)とかウェブアニメがとにかく盛り上がっていて、活躍している人たちを集めてコンベンションをやっていました。

竹熊 他にも新海誠さんとかもいましたね。

FROGMAN 今はFLASHアニメは普通のスタジオも取り入れる手法になりましたけど、当時は出てきたばかりでした。「JAWACON」でいろんな企業さんにお声掛けいただいたんですが、ほとんどがDVDにしましょうというお誘いでした。僕はあまりDVDにする、ということに興味がなかったんです。自分で売ればいいやと思っていましたから。
 その中で僕の「早くて安い」という点を一番評価してくれたのが椎木だったんです。そこでDLEに参加しようと思ったんです。

竹熊 それで『秘密結社 鷹の爪』をDLEで作られるわけですね。

FROGMAN そうです。どこからもお金を借りなかったので本当に自由に作れました。そしてテレビ朝日の深夜放送の枠を買って流した訳です。今までの深夜アニメのビジネスモデルは、枠を買って莫大な制作費をかけて作り、それをCMで流して告知したDVDで稼ぐ、というものでした。失敗したときのリスクが非常に高いわけですが、当時はアニメブームだったということもあって『秘密結社 鷹の爪』を放送した06年は新作アニメが40本も作られていたような時代でした。
 2006年はYouTubeも出てきた時期です。他のアニメ会社はYouTubeに勝手に映像があげられるのを嫌がっていたけれど、僕たちは自分たちで流しました(笑)。当時『秘密結社 鷹の爪』は関東と関西でしか流れていなくて、全国でDVDを売るんだからとYouTubeを使って告知をしたんです。DVDを扱ってくれたユニバーサルはイヤそうでしたが、僕らが借金をせずに作っているメリットというか、考えを押し通すことができました。

竹熊 FROGMANさんの最大の特徴は「テンポ」が生む面白さ、だと思うんです。ご自身が脚本を書かれているときから「テンポ」を意識しているんですか?

FROGMAN 意識しています。僕は自分で脚本を書いて自分で声優をするから、それが読まれたときにどう面白くできるか、については非常に自信があります。

竹熊 実写時代を含めると、キャリアとしては25年になりますよね。アニメを作るときに実写の経験は役に立ったんでしょうか。

FROGMAN 立ちますよ。僕のアニメってほぼ動かない絵じゃないですか。動かない絵って実写でいうと「大根役者」なんです。上手い役者は舞台をみれば分かるように全身で演技ができる。大根役者はあまり動かないんです。で、大根役者を撮るときは引いて撮ってはいけないんです。動いてないことが分からないようにアップの画を撮る。だから僕のアニメもアップばかり(笑)。

竹熊 今でも実写をやりたい?

FROGMAN つい最近まで実写の監督をやりたかったんですが、今は分からないです。もう体力的に無理というのもありますし。自衛隊の人が悲鳴を上げるくらいの過酷な環境で、クリエイティブに頭を使う必要もあるのでこの歳では厳しいですよ。

「発注を待つフリー」と
「自分でルールを作るフリー」。

竹熊 しかし、振り返ってみるとアニメに転身されたのが大成功のきっかけでしたね。

FROGMAN 今思うと、実写で働いていた頃は誰かに依頼をされて誰かのルールの下で働くフリーランスだったのに対し、FLASHアニメをやる頃になると自分でビジネスモデルを作っていくフリーランスになったということだったんでしょう。自分でルールを作ることが出来たのが大きかったと思います。
 あとはコストを下げる、というのはすごく意識しますね。ついついお金をかけた演出をしようと思ってしまうんですが、少し工夫をすればお金をかけずに、だけど面白いものは作れるんです。昔、先輩に言われたのは「実写で撮れない映像はあるかもしれないが、実写で表現できない感情はない」と。だからFLASHアニメで表現できないものはない、と僕は信じています。文学は文字だけの表現ですが、村上春樹が三流の表現者か? と言われればそんなことは絶対ないでしょう。

竹熊 そうですね。劇場版アニメを作るのにFROGMANさんはどのくらいの時間をかけるのでしょうか。

FROGMAN 『天才バカヴォン~蘇るフランダースの犬~』でいうとシナリオを書くのに3ヵ月かかりました。同時進行で、大切なシーンの画とかキャラクターの表情を書いています。作画は1ヵ月で終わります。あとの1ヵ月は音楽とか編集作業で埋まります。

竹熊 今でも声を先に録って(※プレスコ)いますか?

FROGMAN そうです。尺も決まってくるので作りながら編集をしているイメージですね。だからプレスコの後で大幅な編集の直しは発生しないです。

竹熊 それは安上がりですね! スタッフは何人くらいですか?

FROGMAN 絵を描いている人は、僕を含めて6人です。

竹熊 2005年にお会いしたときに僕は絶対FROGMANさんは成功するだろうと思っていたんだけど、ここまでとは予想していなかった(笑)。DLEは上場もされましたよね?

FROGMAN 去年にマザーズに上場しました(※取材時。2016年に東証第一部に上場)。

竹熊 昔はFLASHアニメでビジネスなんて想像もつかなかったけれど、上場もして映画にまでなるからすごい。ではFROGMANさんが一番壁を感じたのは、実写業界にいた頃ですか?

FROGMAN そうですね。30歳の頃に、この業界にいるとすり潰されてしまうと悩んだ頃ですね。アニメもそうだと思いますが実写も基本的に使い捨てなんです。あとクリエイターにお金が落ちていかない。今村昌平さんのような巨匠でも借家住まいだったりしましたから。
 やっぱりクリエイターはお金で悩んじゃいけないと思うんです。今月の家賃どうしようかなと思っている人に面白いものは書けないですよ。だから僕はいいものを作るために徹底的にお金にこだわろうと決めたんです。そして自分たちでルールを作る、ということです。
 僕の好きなエピソードが一つあって、赤塚不二夫さんが当時住んでいた目白の高級マンションをタモリさんに譲り渡したという話があるんですが、それは「こんな都会的センスを持っている奴にみみっちい思いをさせたら芸までつまらなくなる」って言ったらしいんです。僕は全く同感で、クリエイターはいいものだけを見てお金に困る必要はない方がいいです。日比野克彦さんも「ダサいものや、みみっちいものに触れるな」とおっしゃっています。

竹熊 年収60万円の頃はとてもつらかった?

FROGMAN それが、そうでもないんですよ。あの頃は日々自分が進化し、成長しているという自負がありました。だから楽しかったし、妻が励ましてくれたので惨めな気持ちになることもなかったです。