「仕事相手が全員年下」「自己模倣のマンネリ地獄」「フリーの結婚&子育て問題」……Twitterで話題を呼んだ〈フリーランス、40歳の壁〉。本物しか生き残れない「40歳の壁」とは何か、フリーとして生き抜いてきた竹熊健太郎氏がその正体に迫ります。著書『フリーランス、40歳の壁』では自身の経験のみならず、田中圭一さん(『うつヌケ』)、都築響一さん、FROGMANさん(『秘密結社 鷹の爪』)ほか、壁を乗り越えたフリーの話から「壁」の乗り越え方を探っています。本連載では一生フリーを続けるためのサバイバル術、そのエッセンスを紹介していきます。
連載第4弾は、杉森昌武×竹熊健太郎対談!中央大学在学中に、伝説的ミニコミ誌「中大パンチ」「太腿」を創刊し、その後も編集プロデューサーとして30万部超えのヒットを8作も手掛けた杉森さん。今は出版業界以外でも、実業家として成功を収めています。1980~1990年代初頭のバブル文化から、大ベストセラー『磯野家の謎』制作秘話まで語って頂きました。学生時代から月に数百万円を稼ぐこともあった杉森さんの数奇な歩みに、旧知の仲である竹熊健太郎氏が迫ります。
離婚、脳梗塞――
竹熊健太郎が直面した40歳の壁。
竹熊健太郎(以下、竹熊) 僕は今、『フリーランス、40歳の壁』という本を書いているんですが(※取材は2015年5月に行われました)、その本にぜひ杉森さんの話を載せたいと思って今日はお時間をもらいました。杉森さんは学生時代からミニコミ(同人誌)で成功し、フリーライターの後に編集プロダクションを設立、今は別の業界で起業もしています。
杉森昌武(以下、杉森) フリーランスにならざるを得ない人って自ら壁を作っているような部分もあるじゃないですか。僕は率直に聞きたいんですけど、竹熊さんはなぜ京都精華大学の専任教授を辞めてしまったの?
竹熊 専任教授って給料はいいんですが、その分、雑用が多いんですよ。授業とは関係ない事務仕事、学生の就職相談とか、入試対応をやらなくちゃいけない。それに、普通は非常勤講師→特任教授→准教授とか段階を経た上で教授になるわけですが、歴史が浅い漫画学部ということもあって、僕はいきなり教授をやらされたんです。
いきなり3つくらい講義が増えたんだけど、講義を一つちゃんと仕上げるには3年くらいかかるんですね、本当は。講義の準備と事務仕事でパンクしてしまって。
杉森 人生といっても時間との勝負だから本当にやりたいことをやるために辞めた、と?
竹熊 そんなにカッコいいものじゃないけど。講義を仕上げるのにも時間がかかりますが、なんといっても僕はどうしても事務仕事に向かなかった。あまりに精神状態が不調なので心療内科で診てもらったら、軽度発達障害に適応障害を併発していると診断されました。それまで非常勤講師は問題無くできていたので、専任教授も出来ると思ったんだけど無理でした。
……本題に戻しますと、フリーランスには40歳の壁があると僕は思うんですね。実際、僕は40歳になってすぐ離婚を経験し、46歳で脳梗塞になってしまう。
杉森 あのときは竹熊さんも自分でももうダメだと思っただろうし、僕もそう思っていた(笑)。
竹熊 死にかけましたが、奇跡的に復活できました。要は何が言いたいかっていうと、フリーランスは40歳を過ぎると仕事が減ってくるということですよ。杉森さんのように実業家として仕事ができればまた違うのかもしれないけれど。
杉森 竹熊さんは純粋な物書きだから余計にそうだろうね。俺なんかは確かに物書きだったけれど、言ってみればプロデューサーのようなものだった。結局才能があったのはライターではなくてプロデューサーの方だったと自分でも思います。
女子大生ヌードを掲載した伝説のミニコミ誌。
竹熊 昔からそうだったよね。出会ったのは1979年で、僕が作っていたミニコミでインタビューを受けてもらった。僕が18歳で、杉森さんが19歳。ここで、簡単に杉森さんの来歴を話してもらってもいいですか。
杉森 最初に原稿料を貰ったのは高校3年の頃かな。高校時代の同級生に、えのきどいちろうとイタバシマサヒロがいて、高校時代から彼らのようなサブカル好きの連中とミニコミを作ったりをしていた。後に3人ともプロの世界に入るわけだけど。それまで俺はすごくサブカル好きの少年ではなかったんだけど、えのきどやイタバシと出会ったことでそっちの世界にのめりこむようになっていった。彼らと大学に入ってからも一緒にミニコミを作ることになるんです。
でも、今振り返ればえのきどもイタバシもちゃんと大学を卒業しているわけだから、一番熱狂してミニコミを作っていたのは多分俺だったんだろうね(笑)。当時は一挙に10誌以上のミニコミを手掛けていたから。
――当時のミニコミは、今でいうコミケで販売されるような同人誌となにが違うのでしょうか?
杉森 コミケも既にあったけど、今ほどの存在感はなかった。僕らが夢中になったミニコミというのは、「キャンパス・マガジン」と呼ばれる大学生が出す同人誌なんです。それまでは詩集とか文芸、政治(アジビラ)が中心だったけど、僕らが端緒となってエンタメのミニコミを作り始めたんです。
竹熊 杉森さんは大学ミニコミのニューウェーブだった。この世代が初めてエンタメ系のミニコミを作ったんです。
杉森 サブカルやエロを扱った若者向け雑誌は既に出てきていたので、それをミニコミで出来ないかと思って始めた。当時、全然授業には出ていなかったけど、一応中央大学の学生だったので大学生編集長ということでマスコミにもよく取り上げてもらっていた。これがものすごく売れたんです。なんで売れたかっていうと女子大生のヌードを載せたから(笑)。
竹熊 「素人女子大生」って言葉を作ったのが杉森さんですよ!
杉森 たぶんね。最初は水着、下着だったんだけど最後はヘアヌードになった(笑)。ヘアヌードは本当に俺が初めてだと思うよ。あのときは逮捕されるつもりでやったもん。
竹熊 ヘアヌードをバラバラにして掲載して、切り抜いてパズルみたいに組み合わせればヌード写真になるっていうことをやっていましたね(笑)。ジグソーパズルみたいな。杉森くんがつくった「太腿」や「中大パンチ」は当時すごい人気で、今でも覚えている50代は多いと思う。僕は全く無名で、アリス出版というエロ本を作っている版元でアルバイトをしながらミニコミを作っていました。杉森さんは学生時代からかなり稼いでいたよね?
杉森 自分で書いた原稿料で月30万円くらいだったかな。それと販売収入が月100~200万円くらいありました。で、大学生を辞めたら続けられないからフリーライターにでもなろうかな、と当時は考えていた。
竹熊 「太腿」と「中大パンチ」はどっちが先でしたっけ?
杉森 「太腿」の方が先です。小さいエロ写真とかを掲載するミニコミだった。それに対して「中大パンチ」は最初タブロイドの活版印刷による新聞だったんです。当初は編集長がえのきど、発行人が俺だった。コンセプトとかはえのきどがやって、発注とか手足になる業務は俺がやったんです。で、その中身はさすがえのきどというか「太腿」の100倍は面白かった。あれにはびっくりしました。でも一番衝撃だったのはあんなに面白かったのに、エロがないだけで全然売れないということです。「面白い」は金にならないとそのとき分かったんです。それでどんどん赤字がかさんでいったから、「中大パンチ」は4号目から編集長を俺を務めるようになって、エロの要素も入れるようにしたんです。そうすると、やっぱり売れるようになった。でも、えのきどとイタバシはそこで抜けてしまった。
大学を卒業すると、えのきどは劇団に所属するようになって、イタバシは出版社に入社しました。僕は大学に行っていないから、みんなが卒業するタイミングで退学しました。それで数年が経って、みんなが24歳になるくらいの頃にそれぞれ行き詰まりを感じるようになった。えのきどは俳優の道に難しさを感じただろうし、イタバシはサラリーマン編集者に絶望を感じた。一方で俺は就職せずにフリーライターをしていましたが、バブルということもあって一人では対応できないくらいの仕事を抱えていました。そこでえのきどやイタバシにライターの仕事を振るようになったんです。そしてその1年後くらいに「シュワッチ」という編集プロダクションを設立するんです。実体はライター集団でしたが。
竹熊 「中大パンチ」を作っていた3人がそこでまた結集するわけですね。「シュワッチ」は後に編集者でライターの押切伸一さんやイラストコラムのナンシー関さんを輩出しますね。
杉森 2人ともえのきどの紹介だったかな。ナンシーは最初イラストレーターで文章をえのきどが書いていたんだけど、いざ文章をナンシーに書かせてみたら、えのきどより面白かった(笑)。ただ、色々と揉めてしまって俺は社長を務めていた「シュワッチ」から結局リコール(追放)されてしまうんだよね。
竹熊 それは経営方針の違いですか?
杉森 実は当時、俺はすごく麻雀にハマっていて他の二人から「杉森は最初色んな仕事を取ってきてくれたけど、今は麻雀しかしていない」という不満があったんです。確かに麻雀にはすごくハマっていて、通算で1億円くらいスっていたと思います。若くて周りが見えていなかった。それに給料は3等分にしていたこともあった。仕事も俺が取ってくるというより、看板を掲げていた俺を通さなきゃいけないという仕組みでしかなかったので。結局、リコールされることになったんです。それで退社後、すぐに有限会社ポチを立ち上げました。
竹熊 シュワッチを辞めた後も世はバブルでしたよね。
杉森 バブルがはじけようとしていた頃。でもすぐに悪くなるわけではなくて、振り返ってみると1990年代には本当に仕事がいっぱいあった。学生時代に業界に顔を売っていたこともあって仕事には困らなかったですね。その後に、俺は光文社の「週刊宝石」に専属のスタッフとしてライティングをすることになった。で、その頃には妻の京子の方がライターとしての仕事が増えていましたね。
竹熊 奥様の京子さんと出会ったのはいつ頃なんでしょうか。
杉森 京子と会ったのはすごく早いですよ。俺が大学3年生で、彼女が専門学校の1年生だった頃です。当時、「太股」とかのミニコミは、書店に委託販売をしていたんです。それを当時、高校生の彼女は読んでいた。それで専門学校に入った後に向こうから訪ねてきて、すぐ同棲するようになりました。そして大学4年生のときには籍を入れました。
竹熊 京子さんがライターとしての才能があると気付いたのかいつ頃なのでしょうか。
杉森 それは早かったです。結婚して彼女は専門学校を辞めて、子どももいなかったので時間があったんです。それで仕事を手伝ってもらうようになって、簡単な文章を書かせてみたらものすごく上手かった。あまり教えることもなくめきめきと上達していったんです。