「仕事相手が全員年下」「自己模倣のマンネリ地獄」「フリーの結婚&子育て問題」……Twitterで話題を呼んだ〈フリーランス、40歳の壁〉。本物しか生き残れない「40歳の壁」とは何か、フリーとして生き抜いてきた竹熊健太郎氏がその正体に迫ります。著書『フリーランス、40歳の壁』では自身の経験のみならず、田中圭一さん(『うつヌケ』)、都築響一さん、FROGMANさん(『秘密結社 鷹の爪』)ほか、壁を乗り越えたフリーの話から「壁」の乗り越え方を探っています。本連載では一生フリーを続けるためのサバイバル術、そのエッセンスを紹介していきます。
 連載第2弾は、とみさわ昭仁×竹熊健太郎対談!サラリーマンを辞めてはフリーランスになり、再びサラリーマンに戻るというサイクルを繰り返すという、“フリーランスにならざるをえない”宿命を負ったとみさわさんは、竹熊さん曰く「とてもよく自分に似ている」フリーの方の一人です。フリー人生を経て、現在はマニタ書房という特殊な古本屋を営みながら、ライター業を続けるとみさわさんに、フリーになる、つまり自分の「好き」を貫くメリット・デメリットを、ご自身が営まれる特殊古書店・マニタ書房にてうかがいました。一生、フリーを続けるためのサバイバル術がここに!

会社を辞めてフリーライターになるまで。

竹熊健太郎(以下、竹熊) 今回の僕の本(『フリーランス、40歳の壁』)は、「フリーランスになりたい」と思っている人には冷や水をぶっかける内容になっているかもしれません。でも世間から憧れられがちでも、「自由業(フリーランス)、板子一枚下は地獄」みたいことが現実じゃないですか。僕は今、そのなかを生き残ってきた人にインタビューをしてきているんです。なので、嘘はつかないで話してもらえたら嬉しいです。

とみさわ昭仁(以下、とみさわ) 最後には希望の持てるような話を目指します(笑)

竹熊 まず、とみさわさんの軌跡を改めてお聞きしてもいいですか。

とみさわ昭仁(とみさわ・あきひと)
1961年、東京生まれ。神保町で特殊古書店マニタ書房を経営するかたわら、ライターとしても書評、映画評、ゲームシナリオ、漫画原作など様々な分野で執筆。変な歌謡曲レコードのコレクターとしてテレビ・ラジオに出演することも度々。著書に『底抜け!大リーグカードの世界』(彩流社)、『人喰い映画祭』(辰巳出版)などがある。最新刊に『無限の本棚〈増殖版〉』(ちくま文庫)。

とみさわ 僕は元々、漫画家になりたかったんですよ。困ったことに憧れていたのは望月三起也先生(笑)。自分の力量では、とても届かない。頑張って模写をしても、なかなか自分の絵が作れなかった。そんなときに、小池桂一さんが史上最年少で手塚治虫賞を受賞するんです(「ウラシマ」※『電脳マヴォ』に掲載中)。あのとき小池さんは16歳だった。当時の僕は15歳かな。すごく衝撃を受けたんです。絵も上手だし、すごく面白くて。自分が史上最年少で手塚賞を受賞するつもりで生きていましたから(笑)。それで、漫画家は諦めてイラストレーターを目指しました。デッサンは上手じゃなかったですが、綺麗な線を引くことは出来た。それで、高校で機械科で立体製図を習っていました。これは面白い!と思って、蒲田にある電子工学院に進学して、その後、図面制作の会社に就職したんです。そのときも、ゆくゆくはシド・ミードみたいになれたらと壮大な夢を持っていたんです(笑)。社内で一番上手い自信があったのですが、それがアーティストとしての我の強さになってしまって。会社はとにかく早く描いてくれと言うんですが、こだわりがあって仕事が遅かった。で、ここは僕のいる場所ではないと感じるようになった。ゆくゆくはイラストレーターにそのときも思っていたんですが、そこで『よい子の歌謡曲』と出会ってしまったんです(笑)。
※よい子の歌謡曲……1979年当初は、当時工学院大学の学生であった初代編集長・梶本学らの手により創刊されたミニコミ誌であった。のちに商業化

竹熊 ちょうどミニコミブームの頃ですね。サブカルチャーが盛り上がり始めた時代。キャンパス・マガジンとかあって。

とみさわ 趣味で歌謡曲が好きでしたから。この雑誌は面白い!と思って、この誌面づくりに参加したいと思ったんです。1983年頃です。文章なんてそれまで書いたことなかったんですが。見よう見まねで「よい子の歌謡曲」にレビューなんかを書いて投稿するようになったんです。そのうちに編集部に遊びにいくようになって。スタッフとして参加するようになり、版下づくりとか手伝ったりするようになりました。それで、そこで文章を書き始めてフリーライターになるんです。その頃にはもう会社を辞めたくなっていたので、退社した後は「よい子」編集部に入り浸っていた。最初にお仕事をくれたのは、高護さん(「よい子の歌謡曲」「リメンバー」の編集に携わる)です。『ザ・シングル盤50’S~80’S―歌謡曲ワンダーランド』というムックのお仕事をくれたんですが、これが最初のお仕事です。

マニタ書房店内にあった。『ザ・シングル盤'50s~'80s―歌謡曲ワンダーランド』(1984年、群雄社出版)

竹熊 (ムックを手に取りながら)あ!これ版元どこ!?

とみさわ 群雄社出版です。このムックが出た直後に倒産したので、お金はもらえてないんです(笑)。

竹熊 僕も群雄社で『色単』という本を出しましたよ。あ!ここにもある。(『色単』を手に取りながら)これです、僕が最初に作った本。あ、初版もある。3回作り直したんですよ。

同じくマニタ書房店内にあった竹熊健太郎+友成純一著『色単 現代色単語辞典』(1983年、群雄社出版、画像左)と新版

とみさわ デビューは出来たわけですけど、月収3万円とかでした。実家住まいだったのでなんとかなりましたが。それで暇だったので、ファミコンを買ったきたわけです。1983年ですから、スーパーマリオとかをやっていたんですが(笑)、ゲームに詳しいと思われたみたいで、ある日連れていかれたのが『スコラ』の編集部でした。当時ファミコンブームがすごく盛り上がっていたので、『スコラ』みたいな雑誌もゲーム攻略ページを欲しがっていたんです。その後は『ファミコン通信』とか『ファミマガ』のような専門誌にも書くようになりました。

竹熊 それは大体いつの頃の話でしょう?

とみさわ 『スコラ』にいたのが1986年4月~1987年6月くらいです。『ファミ通』にいるのが1986年10月~1987年12月くらいまで、です。自分ではゲームライターという職種の、はしりみたいな存在だったと振り返ってみて思いますね。で、当時のゲームライターの文章はヒドいのが多かった。ただのゲーム好きを連れてきて、原稿を書かせているだけですから。そこをちゃんと丁寧に書けるっていうので僕は重宝されていたのかもしれないですね。なので、ゲームライターとして順調に進んでいった時期でした。

竹熊 とみさわさんと僕は境遇が似ていますよね。群雄社から業界に入って、ライターを続けていって。エロ本の仕事はしていなかった?

とみさわ 少しだけやりました。当時アイドルブームだったので「写真探偵団」っていう表紙はアイドル、でも中は読者投稿のエロ写真っていう雑誌があって(笑)。アイドルのパンチラとか載っていました。

竹熊 僕と一緒ですよ!エロ本のなかの非エロ担当。僕は白夜書房で『漫画ブリッコ』とかで仕事をしていた。

とみさわ そうなんですね。僕はゲームライターとして順調にやっていた時期があったんですが、運命が変わるのは『ファミ通』の仕事で田尻 智と知り合ったことです。彼もまだフリーライターで、ゲーム制作者としてはアマチュアだった。あるとき、下北沢にある彼の事務所に遊びに行ったんですが、そしたら彼らは、ファミコンを解析してゲームを開発していたんです。まだゲームフリークが会社でなく、サークルだった頃。ゲーム同人誌とかを作っていたんですよね。そこで田尻と意気投合して、ゲームフリークに遊びにいくようになりました。ゲームフリークは開発の資金集めのために攻略本とかをよく出していたので、僕はゲームフリークから出版の仕事をもらうようになっていました。

竹熊 それが90年くらい?

とみさわ 91年くらいです。それで出版部の主任として仕事をしていました。でも、ゲームフリークに入社してから4年くらい経つと、私はまたフリーランスになるんです。悪い癖が再発したというか、若気の至りというか。とにかくフリーでやっていきたかった。94年頃の話ですが、そのときは小説を書きたいと思い始めていた。でも、僕がゲームフリークを退社してすぐに『ポケットモンスター』が発表になった。ご存知のように空前の大ヒットですよ。そして僕が「あのゲームフリークにいた!」ということで物書きに戻るつもりだったのに、アスキーからゲーム開発の依頼が舞い込んだりしたんです。