もう一つは、生産性という概念の欠如だ。製造現場の生産性向上にはどんな会社でも取り組むが、企画書・報告書作成、メールのやり取りなどのデスクワークに対しては、生産性という概念があまり広まっていないし、体系的な努力もほとんどされていない。あまりに仕事が遅ければ「遅い! もっと早くやれ」という叱責はあるだろうが、人によって内容によって、かかる時間に差があるのが当然という暗黙の了解がある。製造原価は1円あるいはそれ以下の単位で管理するが、どれだけ速く考えているか、どれだけ早く決断しているか、どれほどすさまじく頭が回転しているかどうかについてはそれほど問われない。
それどころか、時間をかけていれば、あるいは、待ち続ければよい考えが生まれるとか、考えが天から降ってくる、という考え方まである。「神の啓示」のような偶然はもちろんあり得るが、神の啓示は、ものすごい努力をしている人が限界まで考え抜いて、壁に当たって、ある日突然その壁の向こうに青空が見えることである。本当に努力している人だけに舞い降りるものであり、普通の努力しかしていない人が言うと、単なる言い訳だ。
考えた時間分の成果を出したいし、出してほしいところだが、残念ながら多くの人にとって、考える時間の長さとアウトプットの量・成果はほとんど比例しない。速い人はびっくりするほど速く、遅い人は許し難いほど遅い。
一方で、経営者を見ると、多くの人(特に優れた人)が即断即決だ。もちろん、慎重に議論すべきことや相談相手・利害関係者が多い場合は、当然、手続き上慎重に進めるが、気持ちとしては早々に意思決定している。悩んだとしても、A案、B案、C案のメリット、デメリットが明確に頭の中にある。
優れた経営者、優れたリーダーはどうして即断即決できるのか。普段からその問題について考え続けているからだ。必要な情報収集も怠らない。常に感度が高く、アンテナが強力に立っている。その分野の専門家とのネットワークも豊富に持つ。信頼できる相談相手が何人もいる。最善のシナリオ、最悪のシナリオも常に考えている。どこを押すとどうなるか、競合の動きなども全部頭に入っている。そういう臨戦状態にいつもいるので、何が起きても驚かない。慎重でいながら正確、かつ電光石火ということが十分できる。
別の言い方をすると、どんなことに対しても、「これはこうかな」という仮説を立てている。あるいは立てることがすぐできる。仮説は立てた後で検証する。検証して違っていれば、すぐ立て直す。このスピードが滅法速く、かつ迷走しない。
経営者に多いと言ったが、もちろん契約社員やアルバイトの人でも、できる人は本当にできる。人間は本来みな頭がいいからだ。
究極はゼロ秒思考
もやもやとした気持ちをその場で言葉にし、考えを深められるようになると、考えが進むだけではなく、どんどんスピードアップしていく。3、4日かかって考えていたことが数時間でできるようになる。1ヵ月かかっていたプロジェクトをものによっては1週間で終わらせることもできるようになる。生産性は数倍~数十倍上がる。
課題が整理され、問題点の本質が見え、本質的な解決策とそのオプションが浮かび、オプションのメリット、デメリットがすぐわかるようになる。問題の本質と全体像を押さえた確実な対策が打てるようになる。
そうした思考の「質」と「スピード」、双方の到達点が「ゼロ秒思考」だ。ゼロ秒とは、すなわち、瞬時に現状を認識し、瞬時に課題を整理し、瞬時に解決策を考え、瞬時にどう動くべきか意思決定できることだ。迷っている時間はゼロ、思い悩んでいる時間はゼロとなる。
文字通り瞬時にできることが多いが、もう少し時間がかかる場合もある。それでも、従来に比べて驚くほどのスピードアップとなる。今、目の前で何が起きているのか、どういう現象なのか、一瞬のうちに判断し、判断したら次の瞬間に進むべき道を複数考え、長所短所の比較をし、即座に方針を決定することができるようになる。
普段から企画や事業について考え抜いている人が突然の変化にすぐ対応できるのは、「ゼロ秒思考」が身についているからだとも言える。自然と先が読めてしまう。はっきりとではなくとも、だいたいの方向性が瞬時に見えるようになる。情報収集を延々として判断を先延ばしにしたり、不安に駆られて部下を叱り飛ばしたり右往左往するのとは正反対だ。
リンゴが落ちるのを見ていたというニュートンの逸話も(本当かどうかはともかくとして)、まさにこれだ。普段から考え抜いていた課題に対して、瞬時に閃きが生まれる。
大リーグのイチロー選手は、バッティングだけではなく素晴らしい守備でも有名だが、バッターが打った瞬間に、ピッチャーの投げたボールのコース、打球音、打球の方向、風向き・風速などのすべての情報をもとに、どの方向に走り出すべきか判断しているはずだ。0.5秒考えていたら、ライナーを地面すれすれでダイビングキャッチすることはできない。
そもそも人類は太古の昔から、サバンナでライオンに出会ったら槍で戦うのか、一目散に逃げるのか、味方を呼ぶのか、瞬時に決めてきた。迷っている時間はない。目の前のライオンは、牙をむいて今にも襲いかかってくる。何もしなければ食われてしまうという状況で、取り得るアクションを瞬時に考え、メリット・デメリットの比較をし、瞬時に判断と行動をして生き延びてきた。現代人のようにあれこれ悩み、逡巡することはなかったはずだ。逡巡するような動物だったら、生存競争に負け、とっくに絶滅している。
何が言いたいかと言えば、人間にはもともと素晴らしい判断力、思考力とそれに基づく行動力があるが、のんびりしていてもなんとかなるという甘やかされた環境、出る杭は打たれがちなムラ社会、周囲との摩擦を起こさない行動様式、慎重に考えるよう釘を刺してきた先輩たち、詰め込み式の学校教育、あるいは行儀よさを要求した保守的な親、等々の複合的な影響でせっかくの能力に蓋をし、退化させているのではないかということだ。
特に日本の学校教育においては、記憶力と、試験でよい点を取るための些末なノウハウが重視される。頭の良し悪しや、本来の思考力・判断力の強化ではなく、限られた試験空間でのみ通用する特殊なテクニックの習熟度合いでテストの点数が決まる。数学の公式・定理と証明方法を丸暗記するとか、解けそうな問題からまず解いてしまうとか、ありそうな答えから逆算するとか、例年の傾向から導き出したその年の出題傾向を踏まえて集中的に練習するとかだ。
そのなかで培われた、自分はできる/できない、優秀だ/優秀でない、頭がいい/頭が悪い、褒められた/褒められなかった、といった過度の自意識により、本来持って生まれた能力を活かせず、がんじがらめになっている人がほとんどではないか。
もしそうだとすると、過度の自意識を取り払い、がんじがらめでこわばっている頭をほぐすことができれば、誰でも元々持っている高い能力を発揮できるはずだ。こういうもったいない状況をなんとかできないだろうか。なんとかできないはずはない。そう思ってずっと考え、次回説明する「メモ書き」を工夫し続けてきた。