古くからの友人と、カフェで偶然出会った。2年は連絡をとっていなかったと思う。1年ほど前、彼は長く勤めた大企業を辞めて自分の会社とサービスを立ち上げた。当時はいくつものメディアに取り上げられ、注目を浴びているのをSNSで見かけていた。それがこのところ、SNSでも友人の集まりの場でも、姿を見かけないな、と思っていたところだった。
向かいの席に座った彼は「久しぶりだねー」と笑顔をつくったが、口元がひきつっているのが分かった。カップを握る手も震えていた。もともと明るくて気さくな彼の、落ち着かない様子に違和感を持ち、少し心配になった。
「大丈夫?調子悪そう」と聞くと、ぎこちなく笑いながら「会う人みんなにそう言われる」と答えた。
「最近寝ても寝た気がしなくて、それに頭が全然働かない」と彼は話し始めた。
聞くと、彼の事業はスタート当初こそ注目されたものの、思ったように収益化は進まなかったという。追加の資金調達のめどがつかないまま、資金は底をつきそうになっていた。運転資金を稼ぐために日銭稼ぎのための業務を請け負うが、それが彼の体力と睡眠時間を奪っていた。ミスが増え、顧客からのクレームも増え、仕事を楽しいとは思えない。うつむいて絞り出すように話す様子からも、精神的に限界にきているのだとすぐに分かった。
「いったんゆっくり休んでみるという選択肢はないの?病院にも行ってみたほうが」と言う私に、彼はこう返してきた。
「できることなら休みたいし…もうやめたい、とすら思ってしまう。でも今休んだら会社は立ち行かなくなる。そうしたら失敗者としての烙印を押されてしまって、きっともう夢をかなえることはできなくなる。もう一度立ち上がれる自信がない」
彼はその数ヵ月後、事業をたたみ、実家に帰ったと聞いた。
このエピソードは、個人が特定されないように複数の事例をもとに改変を加えたものである。だが、起業家うつの、典型的な事例のひとつといっていいだろう。