「悲劇」に群がる人々 退屈な日常

 「先が見えない時代だ」「閉塞感に溢れている」と言われている。

 たしかに、社会には、「希望」なき言葉が溢れている。もはや、誰もが夢を見られる科学技術や、それによって達成される豊かさは手近なところには見つからない。

 希望があると聞き、その方向に目を向けてみれば、それが気休めでしかないどころか、さらなる事態悪化への入り口でしかないことに気付く。政治も経済も、あるいはそんな「大きな話」だけではない、私たちの生活にまとわりつく種々のできごともそうだ。

 しかし、一歩引いてみれば、社会には活気が溢れているようにも見える。定期的に現れる「敵」を見つけては、断続的におこる「炎上」。これまで確かにあったものが崩れ落ちる「悲劇」に、人は群がり盛り上がる。

 「もう終わる、すぐ終わる」「あれはダメだ、これはダメだ」「変わる、変えなければ」と相対的に「ネガティブな何か」を探し出しては回転の軸にしながら、「ネガティブな何か」があるがゆえに、思いのほか、社会はいまだかつてないほど活発に動いているようにも見える。

 浅はかな「希望」が出ては崩れを繰り返し、それを取り囲む形でおこる祝祭が非日常を演出する。その時々に選ばれた象徴が浮遊し、人々の想像は暴走する。そして、非日常に熱狂したあとで、無言のうちに退屈な生活が続いていく。

闇の中で目を凝らした先に見えるもの

 現代が、例えばかつてのように「暴利をむさぼる資本家」や「民衆を抑圧する権力者」という「絶対的な巨悪」を想定できない時代だとすれば、それは、闇の中の社会だと言える。なぜならば「絶対的な巨悪」がいてこそ、それを打ち破った先に眩いばかりの光の存在を感じることができるからだ。

 そして、その光を目指す高揚感の中で社会は一つの秩序をもって営まれてもきた。現代はその秩序が失われた社会だとも言えよう。

 光の存在をどこにも感じることができない、闇の中にある時代がもたらす不安は、人々をある種、宗教的な社会現象の中に再編する。単純で分かりやすい言葉・経典(答え)を求めては、「これを信じろ」と社会は凝縮し、価値観の異なる「異教徒」を、でっちあげてでも探し出しては叩き潰す。

 「あいつらはおかしい、とんでもない」と、あるいは「こっちを信じれば救われる、さもなければもはや……」という、陰謀論的なるもの、終末論的なるものの発生にドライブがかかり、そこに浸ることで生きる意味と充実感を得る者が出現する。

 今、求められるものは、闇の中に、安心できる象徴をでっち上げたり、無理にありもしない光を想像することではない。先行きを見通せない閉塞感の中で立ち止まった時に芽生える現実が示す、その恐怖感から逃れてはならない。

 目を凝らしながら、闇を闇として見つめ、少しずつでも歩みを進める。手の届く範囲にあることに軽率に飛びつくことをやめ、複雑なものを短絡的に単純化すべきではない。ろくに手足を使ってもいないのに分かりやすい答えが見つかりそうになったとしたら、それは先入観や偏見でしかないと拒絶すべきだ。

 丹念な作業の末に、闇の中にも目が慣れてくると、大きく感じていた「見えない化け物」が、たとえ自分の手で扱えることはなかったとしても、自分と同じような何かであることにも気付くはずだ。