後閑:息子さんは、「お母さんの最期がすごくよかったから、自分もここで看取ってほしいと思ったんですよ。だから30年後にまた来ます」と。
平方:私も同じようなことをよく言われます。「自分の時もお願いします」と。
だけど、その時まで私自身が生きているかがわからないから、「その時、私が生きていたらまたお世話しますよ」と言うわけです。同級生にも「俺より先に死ぬなよ」と言われます。
でも、それはいつどこで命の終わりが近づいても日本で死ねるならいいや、と思える日本にすればいいわけです。
後閑:何かあったらあの病院を頼ろうという思いがあれば、それまで生きることに専念できると思うんです。
あの病院は、母さんが死んだ縁起が悪いところだとか、病院なんてひどいところだなんて思っていたら、そのご家族はいざという時にどこも頼れなくなってしまうと思うんです。
そういう意味でも、良い看取りとはこれからを生きる人のためにも必要だと思います。
平方:そうなんですよ。
80過ぎたら「人生会議」
平方:これから亡くなっていく人が増えていって、看取る人はその人たちより概ね一世代下、二世代下の人たちになりますが、看取る人が幸せにならないといけないと思うんです。
ACP、人生会議は国が進めてるものだからろくなものじゃないだろう、と思っている人がいるかもしれないけれど今回、ACP人生会議に関しては、これを活用しないといけないと思います。
たとえば、十分歳をとられてきた人や、命に関わるような病気になった人が、「そろそろ俺の人生会議をやらせてくれないか」と言えるような社会にしなければならないし、「人生会議? 何それ? 知らない」と言われないような家族関係にしなければいけない。
「そうか、親父もそういうことを言う時期になったか」と言って、みんながそれについて話し合う、あるいはある程度の年齢になったら、「80歳過ぎたら人生会議」というふうにしていくと話をするきっかけができます。
きっかけができれば、人生会議は一回で終わらせるものではないし、深い話ができるようになると毎日が人生会議になるから、それで満足や納得を増やしていける社会になるといいと思うので、人生会議を生かせる日本になってほしいなと思います。
後閑:看取る人が幸せにならないといけないというのは、本当にそう思います。
家族だけでなく、医療介護職もです。
医療者も今現在やこれからの症状のことだけでなく、本人がどう生きてきたのかというところに目を向けてほしいですね。私が原作を担当し平方先生に監修してもらっている「月刊ナーシング」連載「まんがでわかるはじめての看取りケア」で看護師さんには少しずつ看取りケアについて伝えさせていただいています。
医療者にはその人の人生に関わるという視点で患者さんに関わっていってもらえたらいいなと思っています。
患者さん自身もそのご家族も、病気や症状だけではなく、人生に関わってもらっているという視点で医療者と人生会議をしてほしいです。
[2]死を不幸なことと決めつけない。「良い看取り」はこれからを生きる人のためにも必要。
[3]人生会議を始めよう!