上海の日本人経営飲食店の
「脱出先」はクアラルンプール
マレーシアの首都クアラルンプールでは近年、日本人が経営する飲食店の出店が相次いでいる。これら飲食店の中には、中国での経営に見切りをつけた“中国脱出組”が少なくない。
振り返れば、2010年代に入った頃から、徐々にその動きは始まっていた。2012年の反日デモが、一部の日系製造業に撤退決断の契機をもたらしたが、コスト上昇で上海経営のうまみが薄れつつあった一部の日系飲食業界でも“撤退作戦”がささやかれるようになっていた。
業界で古株といわれた坂下浩盛さん(46歳)の上海出店は、1998年にさかのぼる。当時は、ホテルの中に店を構えるスタイルが主流で、上海の日本料理店は路面店を含めて30店舗ほどしかなかった。その時代を坂下さんはこう回顧する。
「当時の従業員の月給は700元(当時のレートで約9800円)。お客さんによっては、うちの店の1回の食事で彼らの月給が払えたものでした」
2000年代に入って中国がWTOに加盟すると、日本から企業がどっと上海に進出。2010年には上海万博が開催され、日系企業の進出がさらに加速した。日本料理店は日本人駐在員にとっての息抜きの場ともなり、坂下さんの店も繁盛店の1つとなった。だが、坂下さんは「必ずしももうかってはいなかった」と振り返る。
「2010年代に入ると、従業員の賃金は一昔前の700元から5倍に、能力のある社員は10倍に跳ね上がりました。食材も日本並みに上がるどころか、テナント料もすでに東京の水準を上回るものになりました。多くの飲食店経営の日本人仲間が街の再開発とともに立ち退きを迫られ、店を転々とさせたのもこの時代。不動産価格が高騰して、まるで物件の大家のために働いているような感じでした」
この頃から、上海で経営する一部の日本料理店オーナーの間で、“上海脱出”が話題に上るようになったという。彼らが注目したのはマレーシアだった。賃料、人件費などの固定費が上海の約半分で済むことと、政府の政策に安定性があることが、日本人オーナーたちの関心をひいた。