皆さんは「エピクテトス」という哲学者をご存じだろうか? 日本ではあまり知られていないが、「ストイック」(禁欲的)という生き方を打ち出した源泉のひとつであり、キリスト教、仏教、無神論など、様々な立場の違いを超えて、古今東西、多くの偉人たちにも影響を与えた古代ローマ時代の哲学者である(エピクテトスについては別記事を参照)。欧米では、古くから彼の言葉が日常の指針され、近年ではさらに注目を集めている。そのエピクテトスの残した言葉をもとに、彼の思想を分かりやすく読み解いた新刊『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業』(荻野弘之・かおり&ゆかり著、ダイヤモンド社)が9月12日に刊行となった。今回は、本書の著者である上智大学哲学科の荻野弘之教授に、その思想について解説してもらった。
「病気は身体の妨げではあるが、意志の妨げではない」
今回は、エピクテトスの以下の言葉を取り上げて解説したい。
君が出くわすことになるどんな事態に際しても、このことをあえて自分に言い聞かせるがいい。そうした困難は、何か別のことの妨げではあるが、君自身の妨げではないことがわかるだろうから。
朝、目覚めたらなんだか熱っぽくて身体もだるい。熱を測ったら38度近くある。こんなに体調が悪いのだから、とても会社で仕事なんてできそうもない―。誰しもこんな経験をしたことがあるだろう。
自分の自由を縛るもの、それは金がなかったり時間がなかったり、大抵は手段となるものが欠けている場合が多いが、よく考えてみると最大の制約条件は我々自身の「身体の不自由性」に帰着するのではなかろうか。
上智大学文学部哲学科教授
1957年東京生まれ。東京大学文学部哲学科卒業、同大学院博士課程中退。東京大学教養学部助手、東京女子大学助教授を経て99年より現職。2016年放送大学客員教授。西洋古代哲学、教父哲学専攻。著書に、『哲学の原風景――古代ギリシアの知恵とことば』『哲学の饗宴――ソクラテス・プラトン・アリストテレス』(NHK出版)、『西洋哲学の起源』(放送大学教育振興会)、『マルクス・アウレリウス『自省録』』(岩波書店)、『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業』(ダイヤモンド社)などがある。
「自分が自分の身体を持っている」のは当たり前の事実だから、このことには気づきにくい。駅まで歩いたり、ご飯を食べたり、日頃何ら不自由なく振る舞える時、自分が身体を持っていることをほとんど意識していないからだ。
自分の身体がはっきりと意識にのぼるのは、急いで走って動悸がしたり、歯が痛くなったり、ケガや病気で歩行が困難になったりして、自分が何かを「できない」と感じる時であり、総じて「負の体験」をする時だと言えよう。眼鏡をかけて物を見ている時、普段は眼鏡の存在を意識しないが、レンズが曇ったり汚れてよく見えない時にこそ眼鏡の存在が意識にのぼることに似ている。
もっとも身体を動かすこと自体には、本来楽しい側面もある。練習を積み重ねて逆上がりができた時、25メートルプールの端まで泳ぎ切れた時、あるいはピアノの練習曲をミスなしで弾けた時……我々は自身の奥底から湧き上がる充実感を覚える。それは心・身が一つに統合されたことを実感する独特の喜びなのである。
どんなにつらい状況に見舞われても、
「意志」だけは自由にできる
こうした事情があるから、我々は身体の状態と自分の「やる気」を結びつけて考えがちだ。体調がよければ「よし、今日はがんばろう」と張り切ったりもするが、「だるいから、やる気が起きない」場合だってある。誰しも、病気や身体の不調によって精神まで気弱くなってしまうことも多い。
だが、エピクテトスはこの常識とも言える態度に、疑問符をさしはさむ。
もちろんこれは「心頭滅却すれば」といったふうに、いたずらに精神主義を振り回す体育会的な根性論ではない。そもそも、彼がここで「意志」(プロアイレシス)と呼んでいるものと「やる気」は微妙に違う。たしかに、やる気は体調や身体の状態に左右されるが、「意志」はそうではない。
エピクテトスが言う「意志」とは、自分が何をしたいと願い、どれを優先し、何をすべきだと判断するか、という熟慮に基づいた判断の最終的な結論を指し、自分自身の人柄や性向の中核をなすものだ。そこには本来、いかなる外的な障害も存在しない。
病気や身体的な障害で、事実としてできないことがあるのは当然だが、それによって何をすべきか、すべきでないか、という合理的な判断までが曇らされてはならない。エピクテトスは闇雲に「我慢する」ことを勧めているわけではなく、どんなにつらい状況に見舞われても、自分の意志だけは自由にできる、と伝えているのだ。
我々は、病気やケガのせいで必要以上に落ち込んでしまったり、仕事で失敗したりすると、意気消沈して意志まで負の方向に持っていかれてしまう。こうした困難に直面した時こそエピクテトスの忠告を思い出したい。
エピクテトスは『語録』でも何箇所か、自分のことを「足の悪い老人」と呼んでいる。晩年のリューマチが原因と見られているが、いずれにせよこの訓戒は決して机上の空論や精神論ではなく、彼の実生活の経験をもとに語られているところに一層の重みがある。
どんなにつらい状況に見舞われても、自分の「意志」だけは自由にできる。意志こそ我々が唯一、自由にできるものなのだ――。そう自分に言い聞かせることによって、受け入れがたい状況からも立ち直るきっかけを得られるかもしれない。