テレビで動く野村選手を見ることができたのは、オールスターゲームと、1973年の日本シリーズくらいだったと思います。それでは我慢ができなくて、1回だけ球場まで南海ホークスの試合を見に行ったことがあります。このときの記憶は曖昧ですが、おそらく近鉄が年に数回、中日球場で公式戦を行った日か、夏休みで友達の大阪の実家に泊まらせてもらった日の、どちらかだったと思います。

 当時のパ・リーグの試合はガラガラで、自由席で見ていたのですが、途中で友だちが「おい、係の人が指定席に行ってもいいって」と目を輝かせて教えてくれ、グラウンド間近の席で食い入るように試合を見た記憶があります。友達は、「やっぱりパ・リーグはすごいな。実力が違うぞ」と言っていましたが、正直、その違いがわかるようになるのは私が高校野球を始めるようになってからでした。ただその日、野村選手がヒットを打ったのは嬉しかった思い出があります。

 ちなみにその後、ベーブ・ルースの記録はハンク・アーロンに抜かれ、野村選手の記録も1973年に王選手に抜かれます。そして年齢が若い王選手が、それからことごとく野村選手の記録を抜き去っていくのです。野村選手の8年連続ホームラン王の記録を抜き、14年連続のホームラン王になります。三冠王も1973年、1974年と2年連続。野村選手の活躍を知らない世代が、「不世出のバッターといえば王貞治だ」と思うようになるのは、歴史の流れかもしれません。

野村選手の凄さの本質は
情報に対する徹底した努力

 さて、後に「ID野球」と呼ばれるように、野村選手の凄さの本質は、それまでのプロ野球界になかった「情報に対する努力」にこそありました。

 私も知らない、まだプロ野球入団当初のこと。野村選手は芽が出ずに退団勧告を受けたことがあったそうです。確か入団3年目、弱点はカーブが打てないことでした。

 高校野球だと、バッターはストレートを待って打席に入っているものですが、ピッチャーが投げる瞬間に手元でふっとボールを上に浮かせると、それがカーブの目安になります。そこで、一呼吸タメをつくって遅いカーブを待ち、狙いを定めて打つわけです。ところが相手がプロの投手だと、そんなことでは対抗できません。それに、若い野村選手は苦しんだのです。