都営大江戸線大江戸線は「幻の地下鉄」になりかけていた!? Photo:PIXTA

大都市を支える公共交通機関「地下鉄」。複雑に入り組む路線や、毎日多くの人が行き交う駅はどのようにして作られたのか。筆者(鉄道ジャーナリスト・渡部史絵)の最新刊『地下鉄の駅はものすごい』の本文から抜粋して、今回は「日本一長い大江戸線」の特徴を解説する。

オイルショックで絶体絶命!?
「都営大江戸線」開通までの苦難

 三田線には予定していた乗り入れやルートの変更を繰り返した歴史があるが、大江戸線(12号線)も複雑な歴史を経て、今日に至っている路線である。昭和47年の都市交通審議会「東京圏高速鉄道網整備計画」答申第15号で、初めて示された。

 計画された頃は、地下鉄の規格車両や施設が現在のリニア式によるミニサイズではなく、三田線や新宿線などと同様のフル規格による地下鉄で、6の字運転はこの頃からの計画であったが、ルートは現在と異なっていた。

 ところが、交通審議会から12号線建設の免許を取得した昭和49年、社会はオイルショックに見舞われる。日本経済が大きなダメージを受け、地下鉄の建設にも大きな影響を受けることとなった。

 経済状況が厳しくなり、12号線は計画半ばで見合わせとなったが、建設中の10号線(新宿線)は影響を受けながらも、続けられた。また、12号線は計画が中断されながらも、免許の返上はしていないので、計画線として残ることになった。

 しかし、このままでは免許の期限返納で、幻の地下鉄となってしまうことから、建設費用の大幅な削減を目標に計画見直しを行い、フル規格からミニサイズの地下鉄へと変更された。

 内容は、地下の掘削部分を抑制し、小型の車両を製造して走らせるというもので、現在の雛形が計画された。建設費用削減により、再び建設への施行認可を取得し、昭和61年に放射部(光が丘駅~練馬駅間)から、ようやく着工にこぎつけるのである。

 この区間の着工当初、計画していた車両は小型ながらリニアモーターによる駆動方式ではなかったため、リニアモーターで運用されるリアクションプレート(線路中央に敷かれた金属の板)の取り付けは、後から設計変更で補われた。練馬駅~新宿駅間建設からは、トンネル構造の設計を大幅に変更した。

 オイルショックによる紆余曲折の末ではあるが、なんとか無事開通にこぎつけることになったわけだ。