だが一方で、この5人の家族や、その他の拉致被害者が北朝鮮に残ったままだ。北朝鮮との外交的な「約束」を一方的に破り、“ミスターX”との信頼関係を壊して交渉のパイプを失ってしまうと、彼らを取り戻す方法がなくなってしまう。
「約束」を破ったことのダメージをできる限り軽減し、北朝鮮のメンツが立つように話をまとめ、なんとか残る拉致被害者や家族を救出するための交渉ルートを維持する。この難題に対して徹底的に知恵を絞って、準備をしておかなければならなかった。
一時帰国した5人が「北朝鮮に戻りたくない」と言い出すことは、容易に想像できたはずだ。だが、残念ながら日本政府にはその準備なかったのだろう。だから、実際に北朝鮮との交渉に当たっていた田中外務審議官(当時、前アジア大洋州局長)や福田官房長官は、強硬に安倍氏の主張に猛然と反対したのだ。結局、世論に敏感な小泉首相は、安倍官房長官の主張を取り入れて、拉致被害者5人を北朝鮮に戻さないという決断をした。
残念ながら、これは感情的で世論に迎合しただけの、後先考えない決断だったと言わざるを得ない。北朝鮮の態度を硬化させ、さらに拉致問題を交渉するためのパイプはなくなった。特に、「約束破り」を主導した安倍氏に対する北朝鮮の不信感は根強い。北朝鮮を交渉のテーブルに着かせること自体が困難なままとなってきた。
小泉首相は自らの任期中
安倍氏の人気を使い尽くした
もちろん、この決断の全責任が当時の安倍官房副長官にあるわけではない。重要な意思決定に関与していたわけではなく、最後の場面だけに登場し、感情的に国民世論を煽っただけの若手政治家――。むしろ問題は、安倍氏本人よりもそんな彼の人気を利用した小泉首相らにある。
03年9月、小泉首相は安倍氏を自民党幹事長に起用した。49歳での幹事長就任は、47歳だった田中角栄、小沢一郎両氏に次ぐ、史上3番目の若さ。さらに、閣僚も党の要職も未経験での起用という異例の大抜擢だった。当時、衆議院解散を控えており、北朝鮮拉致問題で国民的人気を得た安倍氏に、自民党の「選挙の顔」を期待したのだ。
また、05年の郵政解散総選挙で大勝した後、小泉内閣の内閣改造・党役員人事で安倍氏は内閣官房長官として初入閣した。そして、小泉首相の「後継指名」を得て、自民党総裁選に出馬して勝利。06年9月に首相に就任し、第1次安倍政権が発足した。