2人の妹たちからは、もう随分と前から「お兄ちゃん」と呼ばれていた。手術の前後で関係が変わることなどあろうはずもなかった。

 唯一、実家の近所に陰口をたたく人がいて母や妹たちが嫌な思いをしたことがあったが、乗り込んで行って黙らせた。

「おたくの息子たちよりも、俺のほうがよっぽど男っぽいぞ」

 性別適合手術の顛末を当時のSNSで情報発信したところ、日本国内から相談の声が寄せられた。「一緒にタイに行ってほしい」「アドバイスが欲しい」。みな切実な願いばかりだった。

 まだ日系企業の海外進出も少なかったころ。現地で性別適合手術を日本語でコーディネートしてくれる業者やサービスなどは皆無だった。需要はあってもハードルが高い。諦める人が少なくなかった。

 こうした中、求められているのが自分だと悟り、なじんでいたタイル工を辞める決断をする。一言で言えば「使命感」。日本とタイを行き来して、困った人を助ける生活が始まった。

 バンコクに会社を登記して、観光ライセンスを取得したのはそれから間もなく。以降、年間60人以上もの日本人の性別適合手術に立ち会い、実現させた。

 とはいえ、全てが順風満帆だったわけではない。手術直前になって患者が逃げ出したり、同行した母親から「止めさせてもらえないか」と懇願されたりしたことも。手術は無事終わったというのに、子どもができないことが原因となって言い争いとなるカップルもいた。精神を病んでしまった人も少なくなかった。

 それまで抱えていた理想と、向き合うこととなった現実との間に大きな齟齬(そご)が生じた時、人々の心は大きく揺れた。そんな時は、いつもこう語りかけるようにしていた。「戸籍の変更はゴールではない。その後の人生を生きるための出発点にすぎない」と。

LGBT向けの
アパレル店を開業

 タイで会社を設立し4年が経過したころ、「この仕事はあと1年としたい」と宣言した。30歳を超え、自分も次の人生を歩み出そうと考えていた。性的少数者や性別適合手術への世界的な認知や理解も広がり、専業とする民間会社の設立も相次いでいた。

 1年後、日本に帰国し、舞い込んでくる講演や企業回りで生計を立てた。学校など教育の現場では性差別に対する理解と偏見除去のための啓蒙活動を続けた。企業回りではLGBTへの理解、ダイバーシティー(多様性)こそがこれからの会社のあり方だと説いた。商品やサービスの売れ行きにも影響するはずだと訴えた。