しかし、歳が同じなら人は同じだというのは大嘘だ。差別の危険を問題にした文章で、別の差別を指摘されるのは間抜けだから、具体例を挙げないが、人は年齢が同じでも、能力も容姿も持っている資産や知名度や家族、友人の数も異なる。

 何によって人の扱いが変わるのがフェアか、という点は、状況によって変わるだろう。たとえば、顧客の年齢によって価格を変える商品の売り手がいたら、不利な年齢の顧客はかなり腹を立てるのではないか。

「ゆとり」に見る年齢の足かせ
教育でも年齢差別をなくせ

 重要な公的サービスの1つである教育はどうだろうか。思うに、教育も年齢で「差別」されるべきではない。

 日本の学校では、もっと広範囲かつ柔軟に飛び級を認めるべきだろう。十分な学力を持っている児童・生徒を年齢だけを理由に本人にとって実りのない教育レベルに留め置くことは、本人にも、社会にとっても大きな損失だ。

 すでに時効の部類だろうから書いてしまうが、かつてある教育政策関係者から、ゆとり教育の導入について、「本当は、エリートにはエリート教育をしたいということが、ゆとり教育の真の目的の1つなのですが、(学力が)上の方の自由度から先に拡げると世間はうるさいので、戦略的な判断として、まず下の方から自由度を拡げるのです」とお聞きしたことがある。

 遠大な計画であり、果たしてこれで上手く行くのか、行かない場合に責任を取るのは誰なのかと、大いに気になったことを覚えているが、案の定、ゆとり教育は上手く行かなかった(と筆者は思う)。ビジネスの場合と同じで、良い戦略というものは、もっとシンプルでなければいけない。

 世間が今後、「年齢差別」に対して、いつ、どの程度敏感になるのかは予想できないが、「歳が関係ない社会」への準備をしておく方がいい。年齢差別は確かに「差別」なのだ。問題意識が拡がり始めると、伝播が早いかも知れないし、制度や企業の変化も早いかもしれない。