生き物は死ぬ
バナナは、存在しているのに、存在しなくなる。コップは、存在しているのに、存在しなくなる。存在しているものはどれも、存在しなくなる(かもしれない)のだ。人間も、存在していたのに、存在しなくなる(かもしれない)。人間はどういうふうに、存在しなくなるのか。
コップはモノである。モノは、壊れる。ばらばらになって、コップの形がなくなる。コップとして使えなくなる。いままでコップだったのに、もうコップでなくなる。
人間は、生き物である。生き物は、死ぬ。いままで生きていたのに、動かなくなって、そのうち腐ってしまう。生き物だったのに、もう生き物でなくなる。
コップが存在しなくなるのと、生き物が存在しなくなるのは、似ている。どちらも、存在しなくなるところを、経験できる。
生き物には、いろいろある。ネズミも生き物である。魚も生き物である。虫も生き物である。イヌも生き物である。人間も生き物である。みな生きている。そして、死ぬ。イヌを、見る。触れる。イヌは生きている。そして、死ぬ。死ぬところを、見る。触れる。イヌは存在しなくなった。もう、見ることも、触れることもできない。
人間(たとえば、親戚のおばさん)を、見る。触れる。そのおばさんは生きている。そして、死ぬ。存在しなくなった。もう、見ることも、触れることもできない。人間は、生き物として生きている。そのことを、経験できる。そして、死ぬ。そのことを、経験できる。それは、イヌやネズミや、そのほかの生き物と同じである。
生き物が死ぬのは、このように、経験的な出来事である。
人間が死ぬのも、このように、経験的な出来事である。
(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)