『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』が10万部を突破! 本書には東京大学教授の柳川範之氏「著者の知識が圧倒的」独立研究者の山口周氏「この本、とても面白いです」と推薦文を寄せ、ビジネスマンから大学生まで多くの人がSNSで勉強法を公開するなど、話題になっています。
この連載では、著者の読書猿さんが「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に回答。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。(イラスト:塩川いづみ)
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら

「いいね」が全くつかなくても、作品を発表し続ける意味はあるのかPhoto: Adobe Stock

[質問]
 作品を評価されないことがつらい」という感情をどのように乗り越え、あるいは付き合っていけばいいのでしょうか?

 わたしは趣味で小説を書いている者です。今回質問さしあげたのは、小説を公開したときの気持ちのコントロールについてお尋ねしたかったからです。(小説を書くスキルや、内容の豊かさ、PR方法は各人の努力によって獲得していくものだとして)「作品を評価されないことがつらい」という感情をどのように乗り越え、あるいは付き合っていけばいいのでしょうか。

 前述したとおりわたしは小説を執筆しており、ネットにも公開しています。自作を公開した後は、いつ評価がつくだろうかとソワソワし、通知を確認しにいっては一喜一憂しています。

 そしてほとんどの場合では、評価数の伸びが芳しくなく、ひどく苦しくなってしまいます。また、そのような感情が整理できないため、一歩引いて自分の作品を分析することができず、次の作品のための課題設定がうまくいきません。実際に次の作品を執筆しているときも、「結局は評価されない」という観念にとりつかれ、筆を止めてしまいそうになります。

 わたしは小説を書くことが好きですし、自分にとってこんなにいい趣味はないとも思っています。だからこそこのまま評価数に振り回されていていいのだろうかと悩んでいます。

 わたしが苦しくなってしまう理由は、評価数自体の多寡よりも、「きっとこの小説を公開するといいことがある」「きっとこれくらい評価がもらえる」と根拠もなく期待してしまうからだと思っています。評価数は私自身の努力だけで操作できるものではありませんし、そもそもが漠然とした期待なため、達成・非達成はわたしのそのときの気分によって決定されてしまいます。小説の評価に関して、わたしが満足することは不可能でしょう。

 だからたとえどれだけ小説を書く力を得、今よりも評価をもらえるようになったとしても(そんな幸福な日がぜひ来てほしいものです)、何か個別に対策をしなければこの「つらい」という感情からは逃れられないような気がしています。

 小説を書くことと長く付き合っていくために、読書猿さまのお力を貸していただければと思います。よろしくおねがいします。

承認やお金のために書くと、長く続けるのは難しい

[読書猿の回答]
 確かに承認に頼ると長く続けることは難しいと私も思います。

 私の場合、長い間評価が得られなかったために、いつしか低承認体質みたいなものになってしまっているので、以下はアドバイスというより負け惜しみに近いものです。

 私は14歳の頃から、誰に頼まれた訳でもなく、多くは誰に見せるのでもなく、何かを書いてきました。ネットに書くようになってから20年間以上になりますが、最近まで依頼も評価もないままに書いてきたことになります。

 では自分が何故書くのか、何に駆動されて書いてきたのかといえば、承認よりもむしろ必要によってだと思います。その必要を満たしてくれるなら他の人が書いてくれてもいい(むしろその方がいい)のですが、散々遂巡した後に、自分の必要を満たすものは他の誰も書いてはくれないのだと認めざるを得なくなりました。

 私が書くのは、頭の中を掃除するため、言葉に可能なことを知りたいため等いろいろありますが、書いたものを誰かに見せるのは、自分がたくさんの先人から受け取ってきたものを、(いるかどうかも分かりませんが)「次の人」に手渡すためです。これが才能も能力もない私が、誰にも求められず/認められずに書き続けてきた理由です。

 このことは私に力を与えると同時に限界づけているとも思います。例えば私は誰かを喜ばせるために書くことはできないでしょう。

 しかし、これはもう逆説というより負け惜しみに類する言い方ですが、承認とはそれを求めない時にこそ得られるものかもしれません。例えば誰かを面白がらせよう(誰かに受けよう)とする文章の多くは面白くありません。承認や評価を求めると、際限なく自分以外の基準を合わせるために迷走することになり、創造性は減退するようです。

 これに対して、書き手が書かずにはおれなかった止むに止まれず書いた文章は、その表現が稚拙であっても、そして書き手の必要が我々のそれと重ならなくても、我々の胸を打つことがあります。多くの人に受け入れられなくとも、遠くにきっといる、これを必要としている誰かに確かに届く。そう思って私は書いています。