結局、世間の価値観に合わせるが吉…?
「そう気づくと、今度はちょっとやけくそのような気分がしてきて。感染するかどうかは究極のところ運不運。ならば世間の価値観や大勢の同意の通りに行動してみればいいではないかと。自分の感覚を無視することにはなるけど、あれこれ思い悩まずに世間の価値観に沿ってさえいればいいんです。もっともその世間の価値観がよく変わるので見極めが大変なのですが。世間の価値観に合わせてしまえば、もし感染してしまってもそう文句は言われないはず。こう考えるようになってから少し楽になりました」(Dさん)
Dさんのこの言葉を聞いて筆者はハッとした。「これなら文句ないでしょう」という気持ちが自粛意識に結構な割合で混じってきていることを自覚させられたのである。
もともとは自発的に感染を避け、感染拡大という社会のダメージを抑えるべく自主的に自粛を行っているつもりだった。
だが第3波を迎えた今はどうであろうか。もちろん上記の初心が失われたわけではないが、世間のいろいろな声やそれが変遷するさまを見続けた結果、疲れ、「これくらいならいいでしょ」と世間的に見た及第点を目指す心境に変化してきている。コロナ禍の緊張感にいい意味でも悪い意味でも慣れてきてしまっている今、仕方がないとも言える。
人間は誰もが初志貫徹する強さを持っているわけではないから当然で、ただ、いつの間にか当初から持っていた自分なりの哲学・自粛意識に、異なる新しい要素を判断基準として持ち込んでいることに気づいて驚いた。
ちなみに、思考停止で及第点を狙う姿勢自体は必ずしも悪いものではない。狙われるのはあくまで及第点であり、これによって感染拡大防止はなお一定程度なされているはずだ。
もうそろそろで感染拡大から1年となる国内のコロナ禍だが、自粛意識はどのように変化していくのであろうか。事態の成り行き次第ではあるが、再度緊急事態宣言の発令といった政府主導の対策がなされれば、それを機にまた一気に違う方向に変化していくであろう。
第1波から第3波のここまで、自粛には実にさまざまなスタンスがあって、万人に通ずる普遍的および不変的なものはなかった。理想的なスタンスを強いてあげるとするのであれば、「他者に耳を傾けつつ自分を柔軟に信じること」くらいであろうか。何かと疲れるコロナ禍だが(疲れるくらいで済んでいる筆者などはよほどの幸運だが)、同様に疲れている人が多数いるという事実には少し救われる気もする。