(c)毎日新聞社1969年1月
韓国政府の2度にわたる裏切りに遭い、1960年代半ばに全精力を傾けてきた、母国で重工業メーカーとなる重光武雄の悲願は夢に終わった。だが、重光は“盟友”から依頼されたプロ野球球団救済を引き受け、60年代後半からは総合菓子メーカーとなるべく、キャンディやクッキーなどへの新規市場参入を続けた。チョコレート市場参入で獲得した勝利の方程式を基に次々と成功を収めたロッテは、製菓業界で押しも押されもせぬ存在となっていくのだった。(ダイヤモンド社出版編集部 ロッテ取材チーム)
“盟友”の懇願で引き受けたプロ野球球団経営
1969(昭和44)年1月のある日に重光武雄は、昵懇の仲にある元首相・岸信介に料亭に呼び出された。部屋に入ると、岸の隣には「映画界のドン」こと永田雅一・大映映画社長が黙って座っていた。経営難に陥った大映映画が所有するプロ野球球団「大映オリオンズ」への再三にわたる支援要請を断り続ける重光を説得すべく、元首相までが乗り出してきたのである。その支援内容は、いまでいうところの「ネーミングライツ」、球団名の使用権を渡すから使用料をくれという話だった。そのときの様子を綴った記事がある。(*1)
「永田さんがね、重光さん頼むよ、頼むよ、と僕の腕を離さないんだ」
(中略)
「野球はよく知らないから駄目です」
重光は渋ったが、永田も簡単には引けない。
「君、アメリカのリグレーだって、宣伝で大きくなったじゃないか」
そんな永田を見かねた岸が、「オリオンズを頼む」と頭を下げた。
永田は当時の政治資金のスポンサーだった。さすがの重光も恩義のある岸からここまで言われてしまうと、嫌とも言えない。
当時の大映は、50年代の全盛期から一転、経営難に陥っていた。51(昭和26)年の黒澤明監督『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、53(昭和28)年に溝口健二監督『雨月物語』で同映画祭銀獅子賞、54(昭和29)年に衣笠貞之助監督『地獄門』でカンヌ映画祭グランプリと名だたる国際映画賞を立て続けに受賞し、永田は絶頂の極みにあった。48(昭和23)年に買収したプロ野球球団「大映スターズ(元・金星スターズ)」は10年後には毎日オリオンズと合併して「大映毎日オリオンズ」となり、64(昭和39)年から「東京オリオンズ」と改称していた。
だが、60年代半ばには、映画はテレビに押されて斜陽産業化し、特に大作主義の大映は収益が急速に悪化した。さらに看板役者の長谷川一夫が引退し、勝新太郎が独立、娘婿の市川雷蔵は肝臓がんで急逝するなど不運も続き、東京オリオンズの経営を単独で維持することが困難になっていた。
かたやロッテは飛ぶ鳥を落とす勢いだった。重光が世界最大のガムメーカー、米国のリグレー(ウィリアム・リグレー・ジュニア・カンパニー)にちなんで、“日本のリグレー”になることを誓い、いずれはリグレーを超えるという悲願は、61(昭和36)年のガム日本一の座獲得、64(昭和39)年のチョコレート市場参入で、もはや夢物語でなくなりつつあった。(『ロッテを創った男 重光武雄論』より)
永田の「リグレー」を引き合いにした口説き文句も、米大リーグの人気球団シカゴ・カブスの本拠地である「リグレーフィールド」が球団オーナーだった創業家の名を冠したものであることは有名で、リグレー同様に石鹸販売(重光は製造販売)からガムメーカーを興した重光の心に少しは響いただろうか。
重光はいったん持ち帰り、社内で検討するも、案の定、次から次へと反対の声が上がった。
「菓子メーカーにとっては巨人ファンも阪神ファンも同じお客様です。そこでわざわざ球団を持てば、お客様からはそっぽを向かれる」
それでも、重光は社員の反対を顧みず、東京オリオンズの支援を決断した。支援内容は、12億円の赤字を抱える球団の資金ショートを防ぐため、その半額6億円を出資、向こう5年間、毎年1億円の広告費を出すというものだった。2004年の大阪近鉄バファローズの買収問題をめぐる“ホリエモン騒動”を経た現在から見れば、球団経営が“料亭政治”で決まることに驚きさえ感じるが、当時はそんな時代だったのだろうか。現役総理大臣として初めてプロ野球の始球式でマウンドに立ったほどの野球好きとはいえ、大映とロッテの調印式で中央に立つ岸の姿に違和感は拭えない。
東京オリオンズは「ロッテオリオンズ」となったが、重光は球団経営には一切関与しなかった。
「もちろん社内では反対意見がありましたよ。しかし、カネを出すかわりロッテは球団を宣伝に使えるし、全国の大映の映画館でロッテ製品を売ってもらう。球団の役員に私がならないのは私が多忙なせいと、一方では永田さんの“くちばしをはさんでもらいたくない”という意向を尊重したから」(*2)
*1 『日経ビジネス』2005年7月18日号
*2 沢開進「六億円をポイッと投げだした男:ガムの王様・重光武雄さんのこと」『潮』1969年5月号