出版編集部ロッテ取材チーム
第15回
裸一貫で創業したロッテを、日韓を股に掛けた巨大コンツェルンにまでを育て上げたカリスマ経営者、重光武雄。その経営哲学は、前回の連載で述べた2つの行動原則と4つの経営原則だった。とりわけ、「信頼される人になる」と「人に迷惑を掛けない」という2つの行動原則は重光が生涯追い求めたものだった。そして、ロッテ躍進の原動力であり続けたとなったのは、重光の顧客志向に代表される鬼才的なマーケティングと経営ストラテジー(戦略)である。連載最終回は「重光経営」の根幹を成す経営手法を振り返る。

第14回
ついに韓国5位の財閥にまで上り詰めるほどの成功を収めたロッテグループ。日韓を股に掛けた巨大コンツェルンを率いたカリスマ経営者、日本名・重光武雄、韓国名・辛格浩(シンキョクホ)の経営哲学は日韓で一貫しており、生涯ぶれることはなかった。経営者として、そして企業としても圧倒的な実績と知名度を誇りながら、重光武雄とロッテグループほど、その実像が知られていない例は他に類を見ない。果たして、重光が生涯貫いた経営哲学、そして経営の原理・原則と手法はいかなるものだったのか。ロッテグループを築き上げた重光経営の軌跡を「重光武雄の経営論」として振り返る。

第13回
ソウル五輪(1988年開催)を当て込んだ重光武雄のホテル・百貨店への積極投資は大成功を収めた。後に「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる韓国の驚異的な経済成長の下でロッテグループの急拡大は続き、ロッテグループは韓国10大財閥の一角を占めるまでになった。だが、97(平成9)年、タイを皮切りとするアジア通貨危機が韓国にも押し寄せ、IMF管理下での経済再建により大手財閥は軒並み苦境に陥った。ところが、強固な財務体質と事業基盤を持つロッテグループは他財閥の“敵失”もあって、ついに韓国5位の財閥へと上り詰めるのだった。

第12回
ソウル五輪開催(1988〈昭和63〉年)に韓国・ロッテグループの命運を託した巨大プロジェクト「ロッテワールド」が成功したことにより、ロッテグループは1990年代以降、韓国で財閥としての地位を固めていく。同じ頃、日本のロッテはヒット商品を連発し、悲願だった製菓業売上日本一を達成する。だが、コングロマリット化する韓国ロッテに対し、多角化が難航した日本のロッテは菓子“専業”メーカーの域を脱せなかった。日本のロッテの利益のほとんどを韓国のロッテに注ぎ込むビジネスモデルの結果により、韓国のロッテは日本のロッテをはるかに凌駕する存在となっていく。

第11回
凶弾に倒れた朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の“最後のプレゼント”と称されたロッテデパートとホテルロッテの大成功で、韓国のロッテグループは製菓事業に加え、新たに流通事業と観光事業を同時に推進する「観光流通」を擁する先進企業グループへと姿を変える。その観光流通の集大成とも言うべき存在が「ロッテワールド」であり、ソウルオリンピック開催決定による開発ブームと、韓国の驚異的な経済成長とも相まって、ロッテグループは1980年代に韓国の財閥として確固たる地位を築いていくのだった。

第10回
韓国に設立した「ロッテ製菓」を日本と並ぶ総合菓子メーカーに育て上げつつあった重光武雄。韓国でも快進撃を続ける重光に、三度目の正直とばかり朴正熙(パク・チョンヒ)大統領から直接、5つ星級の高級ホテル建設を懇願される。この要請に応じて重光は巨大プロジェクト、ロッテホテルとロッテデパートの開業へと踏み出す。この成功を端緒に、ロッテグループはホテル、流通、観光事業を中核とする巨大財閥化への道を突き進んでいくのだった。

第9回
チューインガム、チョコレートに続き、キャンディ、アイスクリーム、ビスケットへの参入を立て続けに成功させたことにより日本で総合菓子メーカーとなったロッテ。その余勢を駆って重光武雄は、日本で先行した事業を韓国にいち早く導入して成功させる“タイムマシン経営”と、グループの投資の9割を韓国に注ぎ込む集中によって韓国のロッテグループを、日本のロッテの総合菓子メーカーという姿を凌ぐ総合食品メーカーへと育て上げた。2度にわたる韓国政府の裏切りで“本業”に注力したロッテは、業容拡大にともなって、コングロマリット化への道をひた走ることになる。

第8回
韓国政府の2度にわたる裏切りに遭い、1960年代半ばに全精力を傾けてきた、母国で重工業メーカーとなる重光武雄の悲願は夢に終わった。だが、重光は“盟友”から依頼されたプロ野球球団救済を引き受け、60年代後半からは総合菓子メーカーとなるべく、キャンディやクッキーなどへの新規市場参入を続けた。チョコレート市場参入で獲得した勝利の方程式を基に次々と成功を収めたロッテは、製菓業界で押しも押されもせぬ存在となっていくのだった。

第7回
1961(昭和36)年にガム日本一の座を奪取した重光武雄は翌62年に、21年ぶりに母国・韓国の土を踏んだ。朝鮮戦争で世界最貧国レベルに転落した母国に戻った重光は、もう一つの顔である辛格浩(シン・キョクホ)として、日韓国交回復の仲立ち、そして韓国への本格投資へと動き出していく。だが、母国への貢献のために、重工業への参入準備を進めていた重光を待ち受けていたのは、2度にわたる韓国政府の裏切りだった。

第6回
悲願の「打倒ハリス」を達成し、ガムで国内トップメーカーの座を奪取したロッテの次なる目標は「打倒森永製菓・明治製菓」。周囲の反対を押し切って、業界の盟主が握るチョコレート市場への参入を決断、外国人技術者のスカウトと巨額の設備投資へと踏み切った。板ガム参入のプロモーションで見せた重光の鬼才的マーケティングセンスはここでも発揮され、わずか2年でチョコ製造にこぎ着けた重光武雄に率いられたロッテは、総合菓子メーカーへの道を駆け上がっていくのだった。

第5回
「世界一のガムメーカーになる」と決意した重光が新たに掲げた目標が「打倒ハリス」、業界最大手のハリス社から国内トップメーカーの座を奪取することだった。そのために重光は悲願だった、ガム市場の本丸である“板ガム市場”に参入する。葉緑素ガムの発売や天然樹脂の採用などの商品開発で鬼才的マーケティングセンスを遺憾なく発揮した重光は宣伝・販売においても世間の耳目を集める“奇策”を連発、ガム市場でメガヒットを積み重ねていく。板ガム参入からわずか7年、ついにロッテはで国内最大のガムメーカーの座を獲得する。

第4回
朝鮮戦争を契機に重光は、世界最大のガムメーカー、リグレーを目標に据え、日本市場でのロッテのさらなる成功を目指し始めた。のちに重光は、「衣錦還郷(いきんかんきょう)」(故郷に物質的還元を行うという朝鮮儒教の思想)の方針の下、日本で得た利益を韓国に投入し、日本と韓国をまたぐ巨大コンツェルン構築へと邁進する。日韓を股にかけたカリスマ経営者、重光武雄と、もう1つの顔である、韓国人、辛格浩(シン・キョクホ)を生み出した、朝鮮半島における重光の少年時代の軌跡をたどってみよう。

第3回
共同で事業を行っていた友人が自分をのけ者にしてガム製造を始めるという裏切りに激怒した重光は、彼らの事業を潰すべく、大成功を収めていた石鹸や化粧品事業を停止し、ガム製造に専念する。油脂関連メーカーとして設立されてからわずか2年で、ガムを祖業とする食品メーカーに姿を変えたロッテは、原料や製法に徹底的にこだわることで、消費者の強い支持を得た。「ドッジ不況」といわれた未曾有の不況を乗り越えたロッテは、世界最大のガムメーカー、リグレーを目標に据え、朝鮮戦争を契機にさらなる成長へと踏み出していった。

第2回
親族の反対を押し切って家出同然で日本へと渡った重光武雄(辛格浩)。綿密な準備を重ねていたとはいえ、裸一貫で日本に上陸した後は、牛乳配達などのアルバイトで生計を立てる苦学生となった。その仕事ぶりに惚れ込んだバイト先の質屋の老人が全財産を託し、重光は新工場を立ち上げる。だが、空襲で工場は焼失し、重光は失意のどん底にたたき落とされる。ところが終戦後の物資不足で、これまでの知識と経験を生かして作った石鹸や化粧品が大当たりする。そして、共同でガムを作っていた友人の裏切りに激怒した重光は、その後のロッテが歩む道を決定づける決断へといたるのである。

第1回
2020年1月、ロッテグループ創業者の重光武雄(しげみつ・たけお)氏が亡くなった。享年98。80年前の18歳の時に、文字通り裸一貫で来日し、日韓にまたがる巨大企業グループ「ロッテ」を築き上げた重光は、日本で最も経済的成功を収めた在日一世の経営者であった。だが多くの日本人は、このカリスマ経営者の輝ける成功は知っていても、その成功へといたる過程を知らない。オーナー社長としての強力なリーダーシップ、鬼才的なマーケティングセンス、常に最高品質を求めた商品の差別化や競争優位戦略……重光経営とはいかなるものだったのか。その成功の軌跡を追った。
