新宿本社の社長室にて。シャツ姿で働く20代の重光武雄

親族の反対を押し切って家出同然で日本へと渡った重光武雄。綿密な準備を重ねていたとはいえ、裸一貫で日本に上陸した後は、牛乳配達などのアルバイトで生計を立てる苦学生となった。その仕事ぶりに惚れ込んだバイト先の質屋の老人が全財産を託し、重光は新工場を立ち上げる。だが、空襲で工場は焼失し、重光は失意のどん底にたたき落とされる。ところが終戦後の物資不足で、これまでの知識と経験を生かして作った石鹸や化粧品が大当たりする。そして、共同でガムを作っていた友人の裏切りに激怒した重光は、その後のロッテが歩む道を決定づける決断へといたるのである。(ダイヤモンド社出版編集部 ロッテ取材チーム)

親も妻子も捨てて、玄界灘を渡る

 1941(昭和16)年の下関。作業着のナッパ服に長靴、風呂敷包み1つという出で立ちで、関釜連絡船(下関ー釜山間)から降り立つ重光の姿があった。重光はそのときわずか18歳。当時のお金で83円、村役場職員の給与2カ月分相当を携えての日本上陸である。まさに裸一貫からのスタートである。

 そんな、いかにも食い詰めて出稼ぎに密航してきたような素寒貧の青年を警察が見逃すはずがなかった。満洲事変から10年たち、中国との軍事衝突が拡大するなかで思想統制が強まっていた時代である。日韓の国籍に関係なく、国境での検問が熾烈だったのは言うまでもない。思想犯を取り締まる特高(特別高等警察)に拘束された重光は厳しい尋問を受け、ムチによる拷問まで受けたという(*1)

 結局、その日のうちに密入国の疑いは晴れたが、警察は重光を関釜連絡船に乗せて帰国させようとした。だが、予定していた船便が満員で、次の便を待つ間に、重光は港からの逃走に成功し、念願の日本上陸を果たすことになる。後に韓国で、「大韓海峡(広義での対馬海峡)の経営者」と称賛されたカリスマ経営者はこうした混乱のなかで誕生したというわけである。

 このとき、警察が重光を帰国させようとした理由として考えられるのは、家出同然で日本に渡ろうとした重光を釜山港で一度は捕まえながら、取り逃がしてしまった重光の父、辛鎮洙(シン・ジンス)が捜索願を警察に出していたからだ。この1年前、貧しいながらも両班(ヤンバン。いわゆる貴族階級)の家系にある辛鎮洙は、村一番の富農の娘と、息子の重光をいわば“政略”結婚させていたのだ。重光の渡日後には長女が誕生しており、結果だけを見れば、絶対君主である父親に対する反逆であり、妻子を捨てての家出あるいは蒸発であったともいえるだろう。

 かたや、重光は着々と日本行きの準備を進めていた。38(昭和13)年に蔚山(ウルサン)公立農業実修学校を卒業後、「羊技術指導員」の見習いとして、公営の種羊場に就職した重光は、場長だった大津隆紹とその夫人に猛烈にアプローチし、日本行きのつてを得ていた。重光が関釜連絡船乗船時に携えていた、出身地の蔚山(現・蔚山広域市)警察署長の渡航許可書も、社会情勢からして一般人が入手するのは非常に困難そうだが、赴任していた朝鮮総督府から種羊場の経営を任されていた大津の支援があれば、取得もそれほど難しいことではなかったのかも知れない(『ロッテを創った男 重光武雄論』より)。

 余談になるが、この大津夫妻の姪が赤羽根恵子(しげこ)氏で、戦後の草創期から大企業になるまでのロッテで秘書や経理担当を務めた人物である。後に、世界で初めてガムの研究で博士号を取った「ガム博士」の手塚七五郎と結婚し、ロッテの成長を支えた夫婦としても知られている。日本へ渡るのに協力してもらった恩返しとしての社員採用のはずが、日本でさらなる貢献を得られることになったのも、周囲から愛される重光の“ひとたらし”たるゆえんである。そうした草創期からのロッテと重光の奮闘ぶり、そして手塚を擁して業界のガリバーを打ち破る成功譚は章を改めて、本連載で取り上げていく。

(*1)藤井勇『ロッテの秘密』こう書房、1979年