そもそもどれくらいの読書ペースの人を“読書家”と称せるのであろうか。読む人は本当によく読む。1日1冊近く読む人は雲上人に思える。月に10冊程度読む人も結構な読書家である。しかしまあ、読破する冊数に関係なく、余暇の過ごし方の選択肢に読書を入れている人は読書家といっていいかもしれない。

 月に10冊なら筆者も実践できていた時期があった。筆者には“(歌や楽器の)練習”や“制作活動”、“英語の勉強”、超積極的にダラダラする“廃人”などいくつかのスイッチがあって、どれかが入ると1~数カ月単位でひたすらそれ三昧になる。その中に“読書”もあって、このスイッチの期間は食事中、トイレ中、電車移動中、隙を見つつの仕事中、読書に没頭し、下手すると人との会話中も読書しようとする。

「読む量が増えていくほど読むスピードが速くなる」という通説があるが、人生の結構な時間を読書に費やしてきたつもりの筆者には当てはまらなかったようで、読む速度は極めて遅いままであった。なので、読書スイッチが入ってようやく月に10冊が達成される。しかしそのスイッチもゲーム『スプラトゥーン』の発売以降バカになってしまい、“スプラトゥーン”にしか入らなくなって数年が経過している。

 とはいえ読書のすごいところは、スイッチが入らなくても余暇の過ごし方として採用できる点である。つまり筆者も、読書以外のスイッチが入っていても、休憩に読書をたしなめていたのであった。これはそれなりに“読書家”と称していい姿勢である。

 だが気が付けば最近、いつの間にかあまり読書をしなくなってきている。手元でちょちょいといじれる有能な時間食いツールが登場してきたことが大きい。そう、スマホである。

「読書家」を自称できなくなった
スマホとゲームに移っていった読書家

 スマホアプリには、ユーザーに日常的に開かせたくなるものが多い。SNSはちょっと放置するだけで流れについていけなくなるから監視を必要とするし、お気に入りのユーチューバーは盛んに配信するし、ゲームは毎日ログインすればボーナス的な何かをくれるし、マンガは毎日閲覧チケットを配布してくる。それらをなんやかんや消化しているとあっという間に時間が過ぎて、読書に回す時間がなくなっているのである。この体たらくでは到底読書家は名乗れない。

 出版関係の知人がいて、当然ながら大変な読書家であった。仕事柄およそ本なるものにアンテナを張っている必要もあったが、元々本が好きなので、とにかくもっぱら読書をして過ごしていた。読み方は筆者と違い節度があり、食卓やトイレでは本を開かない。通勤、休憩、自宅での自由時間に読書をたしなむ。品のある読書家であり、この人がかける眼鏡は知性が顕現したかのごとくきらめきを放ち、窓から降り注ぐ陽光が読書する彼を祝福しているかのようで、傍らに置かれたコーヒーから立ち上る湯気にすら知性が感じられた。自分で書いていてよくわからなくなってきたが、つまるところ、読書するたたずまいが非常に絵になっていたわけである。

 しかし久しぶりに会ってみると読書量が激減したと言う。本を持ち歩かなくなり、「電子書籍にした」とのことでそれはいいのだが、少し時間があれば本を携えていた代わりにスマホをいじるようになっている。電子書籍を読んでいるのかと思ったが、指がせわしなく動いていて明らかにその動きではない。どうやらガチャ要素のあるパズルゲームにハマっているようで、最近は読書の時間をこちらに食われているらしい。もう本を読む彼の姿が見られないかと思うと、寂しく感じられた。ちなみに読書はいつしているのかというと、「通勤中」と「ゲームに飽きたら」だそうである。