政府の裏切りや弟たちの内部紛争・離反にもめげず

 ただし、当初、重光が韓国で目指していたのは、ロッテを総合菓子メーカーにすることではなく、朝鮮儒教の思想である「衣錦還郷(いきんかんきょう)」(故郷に物質的還元を行う)の教えに基づく、祖国貢献のための重工業メーカーへの転身だった。

 だが重光は、“盟友”である、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の依頼により、最初は石油化学事業参入、続いて製鉄所開設の準備に奔走したが、どちらも韓国政府の裏切りによってそれまでの努力が徒労に終わる苦汁をなめさせられてきた(『ロッテを創った男 重光武雄論』より)。

 重光がロッテ製菓を設立したのは、韓国政府が製鉄所を国営で行う、つまり重光に委ねていた製鉄所開設を取り消すと公式発表する3カ月前のことである。ロッテ製菓設立は結果的には、政府の裏切りによって“本業”の菓子製造しか母国では進路がなかった、あるいは、実質的に失敗に近い状態だった家族経営の韓国事業の立て直しに取り組まざるを得なかったためと言えるだろう。

 実は、ロッテ製菓設立の9年前の1958(昭和33)年、韓国では「ロッテ」が設立されていたが、名義は重光を含む男兄弟5人の名義によるもので、実際に経営を行っていたのは長男の重光の弟である次男・轍浩(チョルホ)と三男・春浩(チュンホ)である。当時、四男の宣浩(ソンホ)は日本のロッテに入社したばかりで、五男の俊浩(シュンホ)はまだ高校生だった。しかも轍浩と春浩はのちに経営方針を巡る確執で裁判沙汰になるなど、骨肉の争いで経営は迷走していた。

 ちなみに、さる2021(令和3)年3月に亡くなった、「辛ラーメン」を開発した韓国の食品大手「農心(ノンシン)」の創業者こそ、重光の弟で三男の辛春浩である。60年代以降、轍浩と対立した春浩は粉末ジュースや香料の製造、テレビや時計の組立などを手掛けたもののうまくいかず、当時韓国で出回り始めたばかりのインスタントラーメンに勝負を賭けることにした。ロッテのガム博士、手塚七五郎は「私はラーメンの作り方は分からないから、理研ビタミンに春浩を派遣して、そこで覚えて帰っていった」と証言する。

 春浩のこの計画に、重光は頑なに反対した。春浩は「兄がだめだという事業を私が成功させてみせる」という一心で、65(昭和40)年にロッテ機工を設立して翌々年から「ロッテラーメン」を売り出す。後に「農夫の心」という意味の「農心」に社名を変更し、いまに続く看板ブランド商品「辛ラーメン」を売り出し、現在の大成功へとつながるのである。

 一方の轍浩は、ロッテのキャンディとビスケットの部門を切り離したメロン製菓を設立、韓国のロッテとは袂を分かつことになった。さらに四男の宣浩もロッテに13年間いた後、製麺製造販売のサンサス商事を立ち上げて経営している。五男の俊浩は乳製品のプルミルの会長を務めている。このように、重光の弟は全員がロッテとは切り離された存在となってしまっている。

 だが、2度にわたる政府の裏切りにも、弟たちによる経営の迷走にも重光の「衣錦還郷」の思いがくじけることはなかったようだ。そして、この“本業”である菓子(食品)製造への事業集中と、「ロッテグループ全体の投資の9割以上が韓国に投下された」と経営幹部が異口同音に指摘する母国韓国への経営資源の傾斜配分を続けたことが、後述する韓国におけるロッテグループの飛躍を招くことになるのだから、「災い転じて福となす」といったところだろうか。

 韓国のロッテ製菓設立の翌月、『東亜日報』など67(昭和42)年5月11日付主要日刊紙に、重光は「躍進するロッテ」というタイトルの全面広告で登場した。

「小生は長い間日本で『ロッテ』商標で製菓、不動産及び商事会社を経営してきました。新たに韓国ロッテ社長職を務めることになりましたが、祖国を長い間離れていた関係で下手だった点も多々あると思われますが、小生は誠心誠意に持てる力量を傾注します。小生の企業理念は(1)品質本位(2)薄利多売(3)労使協調で企業を通じて社会や国家に奉仕することです」