そこで私は、奥さんもいる前で、ケンイチさんに向かって言いました。
「優しい奥さんですね。たまには“ありがとう”って、伝えたほうがいいですよ」
すると、ケンイチさんはこう言うのです。
「んー、わかってはいるけど、まだ早いよ」
いかにも亭主関白らしいひと言でした。
奥さんは、「そんなこと言う人じゃないから」と言わんばかりの表情で、でも少し寂しそうにご主人のほうを見ています。
まだ言いたくない……。
まだ聞きたくない……。
もっとそばにいたい……。
そこには二人が醸し出すそんな思いも流れているように感じました。
でも、早く言わないと、もう時間がないと思うけど……。
私は心の中でつぶやきましたが、もちろん口には出せません。
病室にはやや気まずい沈黙が流れ、居心地が悪くなった私は、逃げるようにその場から立ち去りました。
しかし、廊下に出ても自分の思いを消すことができません。
「まだ早いよ」って、いったいいつ言う気なのだろう。
その「いつか」はもうすぐ、永遠に来なくなってしまうかもしれないのに……。
次の日、ケンイチさんは意識がなくなり、しばらくしてそのまま息を引き取りました。
これで「いつか」は永遠に来なくなってしまった……。
ケンイチさんは”最後のチャンス”を逃してしまったのです。
あと少し勇気を出せばよかったのに……。
ところが、そうではありませんでした。