「舞姫」「高瀬川」などの小説で知られる文豪・森鷗外は、東京大学医学部を卒業し、陸軍の軍医総監を務めたエリート軍医だった。そんな鷗外も軍医として九州・小倉へと不本意な左遷を経験し、一時は陸軍を辞めようかと思うほど悩んだ。そんな鷗外が小倉で身に付けた「耐えて待つ力」は、作家としての後の活動の原動力となった。(跡見学園理事長 山崎一穎)
大学同級生が局長就任、他の同期は転出へ
上司が兼業を禁止、小説発表で目をつけられ…
人事異動は、常に組織の状況の中で行われる、あまりに人間くさいドラマです。
特に官僚の世界では、同期でも限られた人間しか就けないポストに誰かが決まれば、他の同期は、足を引っ張らないように各方面に転出させられることが常です。
小説「舞姫」「高瀬川」などで知られる作家の森鷗外は、東京大学医学部を卒業した医師であり、陸軍軍医総監や陸軍省医務局長を歴任するなど、軍医として栄達を果たしています。ただ、必ずしも順調に出世コースを歩んだわけではありませんでした。
鷗外は1898年10月、東京の近衛師団軍医部長(一等軍医正・大佐相当官)に就任します。ですが翌年6月、大幅な人事異動があり、軍医監(少将相当官)に昇進し、小倉にいる第十二師団の軍医部長に転出を命じられました。
この人事異動を行ったのは、1898年8月、軍医監に昇進し、第7代陸軍省医務局長(後に中将相当官)に就任した小池正直です。鷗外とは大学の同級生でした。
大学卒業時、鷗外は19歳、成績は28人中8番です。小池は26歳、28人中9番だから、成績は鷗外の方が上でした。ちなみに鷗外が19歳で医学部を卒業できたのは、今では考えられないことですが、入学時に年齢を2歳偽って13歳で入学したからでした。
さて、小池局長の人事権の行使は、鷗外のみならず、大学同期の同僚たちにも波紋が及びました。
鷗外の転出先である第十二師団軍医部長だった江口襄(のぼる、卒業時27歳、成績は26番)は、名古屋の第三師団軍医部長への転出命令を一度は承諾しましたが、後に承知しないと言いだします。江口はもともと、小池との間に確執があり、江口はそのまま休職となってしまいました。
鷗外の後任の近衛師団軍医部長には、これまた大学同期の谷口謙(卒業時25歳、成績は20番)が、第三師団軍医部長から異動しました。
小池は、軍医と開業医との兼業を厳しく禁止していました。鷗外は開業していないが、すでに「舞姫」や「うたかたの記」などの小説を発表していたことで、兼業とみなされており、目をつけられていたのでしょう。