『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』が、20万部を突破。分厚い788ページ、価格は税込3000円超、著者は正体を明かしていない「読書猿」……発売直後は多くの書店で完売が続出するという、異例づくしのヒットとなった。なぜ、本書はこれほど多くの人をひきつけているのか。この本を推してくれたキーパーソンへのインタビューで、その裏側に迫る。
今回は、『英文法基礎10題ドリル』などの著者で、大手予備校英語講師の田中健一さんと読書猿さんが対談。子どもの学力を伸ばすために、周りの人は何ができるかを語り合った。(取材・構成/編集部)
受験を勝ち抜くために必要なのは「情報の整理」
――田中健一先生が「受験に『独学大全』が効く」と言い切ってくださったことで、多くの方が手に取ってくださっています。
一方で、『独学大全』は予備校で教えられる「受験テクニック」は載っていません。お二人は、受験テクニックと『独学大全』との関係について、どういうお考えをお持ちですか?
田中健一(以下、田中):「予備校=受験テクニックを教えている場所」というイメージがあるかもしれませんが、実際にはもっと真摯に、生徒に向き合っています。具体的には、合格点を取るためだけではなく、大学に入ってからも役立つことを伝えようと日々努力しています。現在研究者をしている高校の同級生は「論文の読み方の基本は予備校の授業で身に付けた」と話していました。私は英語講師をしていますが「大学進学後に英語論文を読むのに困らない実力をつけてもらう」のを究極の目標としています。そのレベルに達すれば、入試問題程度なら楽勝になりますから。もちろんこれは理想論で、現実との調整のために創意工夫するのが我々予備校講師の課題だと考えています。
読書猿:完全に同意です。私は仕切りをこしらえて、いろんな知的営為を無関係なもののように切り離すのを反対する立場なので、高校で学ぶことも学術研究も「陸続き」だと考えています。受験勉強も例外ではありません。
なので「受験テクニック」なるものが存在すること自体、疑いの目でみています。確かに受験生の中には「学校で教えない必殺技」みたいなものへのニーズというか憧れみたいなものはあって、そうしたものを客寄せに使う講師の方がいないとは言いませんが、予備校が提供する最善のものは、そうしたものではないと思います。
誰かの学習を支援しようと思ったとき、他人ができる最たるものは、情報の整理です。この整理には、学習内容に関するものと、学習方法に関するものがありますが、このうち予備校で行われるメインは、学習内容の整理だと思います。
例えば世界史のような知識科目だと、教科書や用語集を何周も繰り返す個人的努力は不可欠です。しかしやみくもに機械的な暗記だけで押していくよりも、訳がわかる形で整理してあった方がずっと楽に記憶できるし、応用も効く。全体の流れや同時代を貫く相互関係を抽出して筋道立て、何が根で幹でどれが枝葉であるか、情報の重要性に応じて精度と粒度を調整するだけでも、背景知識がない初学者にはとても助かります。
こうした情報の整理は、多くの普通の高校生や受験生にとっては、自力でやろうとすると知識量も時間も足りない。専門知を持った人に、情報を整理してもらって、その成果を使って自分の学習を支える骨組みをつくる。もちろん、骨組みで支えてもらったら、自学自習で肉付けしていかなくてはならないんですが。予備校が提供できる最善のものは、こうしたものだと思います。それは決して一過性の、そして適用範囲の限られた、裏技のたぐいではない。
田中:先ほど読書猿さんがおっしゃった「学習内容の整理」は、予備校の機能を端的に表現していて実にいいですね。そのために、我々は過去問を徹底的に分析しているのです。「学習内容の整理」というフレーズ、拝借して早速今日の授業から使わせていただきます。「あの読書猿さんの言葉を借りると……」と断った上で、です。こうやって色々なところから学んで指導に生かしていくのも予備校講師です。私は英語の説明をする時にも,「…と、伊藤和夫が書いています」などと元ネタも合わせて話すことがあります。実際、先人が遺してくれたもので学んでいますから。こういうのをさも自分が考え付いた、自分だけが知っていることかのようにアピールする「カリスマ講師」みたいなのはほぼ絶滅しています。
ちょっと話が逸れてしまいました。我々が提示した「こういうことを理解・定着してくださいね」を自分のものにするためには、受験生ひとりひとりの家庭や自習室での「独学」が不可欠なのですが、それにとりかかるための、継続するための方法論の百科事典が『独学大全』だと思います。
読書猿:『独学大全』の話をするのを忘れていました(笑)。情報の整理の話で言うと、この本が整理してくれているのは、広い意味での「学習方法に関する情報」です。覚え方、読み方だけでなく、多くの勉強法本では前提にされている、取り掛かり方や続け方、教材の選び方や探し方についても多くのページを割いています。
学習参考書は、大人にもコスパ最強の教材
――読書猿さんのことを、「読書猿というくらいだから小さい頃から読書家でさぞかし頭も良かったんだろう」という人が多いです。読書猿さんは、受験勉強にはどのように向かい合って、乗り越えてきたのでしょうか? その時の勉強方法と、人生を通じてやっている「独学」と、断絶はありましたか?
読書猿:受験勉強には、全然向かい合ってませんでした。やってるふりだけで逃げ回っていたといっても過言じゃありません。言い訳をすると、勉強するとはどういうことか、18歳の私はまるで分かってなかったんです。何をすればいいのかはもちろん、やればどういうことになるのか、学んだ先に何が待っているのか、まるで想像できなかった。
ほんとにレギュレーションに救われた形で合格しましたが、無理に独学につなげると、私にとって受験勉強は、「自分がいかに、勉強するとはどういうことか分かってないか」を身にしみた体験でした。
みんながとっくに分かっていること、当たり前にやっていることが分からなかったし、できなかった。その自覚が、当たり前のことを言語化するのが大事なんだ、という自分の仕事の根幹を作っているのかもしれません。
田中:それはそれは……意外ですね。職業柄気になるのは、当時使っていた参考書や問題集で印象に残っているものがあれば科目問わず教えてください。今では絶版でなかなか手に入らないものもあるかもしれませんが、そういうのも含めてで構いません。
読書猿:いやあ、勉強のやり方も参考書も、高校時代はほんとに何も知らなかったんで。伊藤和夫をやったのも、大学卒業してからですし。……あるある話ですが、高校生の時、ほんとに参考書とか分からないんで、受験体験ものとか読んでみたんですよ。体験談を書誌として読む、ですね。読んだのは、エール出版社の「合格作戦」シリーズでしたか。その後、そこで見つけた実力不相応な参考書をへ向かったかというと、素人さんの書いたものなので「あんまり面白くないな」と。で、さらに受験体験ものを探して(笑)、モーリー・ロバートソンの『よくひとりぼっちだった』とか、平田オリザの『受験の国のオリザ』とかを見つけた。完全に目的が変わってしまってる。
そうそう、一つ思い出しました。私は子どもの頃、学研の「ひみつシリーズ」で大きくなったんですが、その学習研究社からマンガの参考書が出てたんですよ。Mangaゼミナールだったかな。倫理の巻もあって、ちゃんとした哲学史の本を読むまで、ソクラテスとかデカルトとかカントの知識はそこで得たレベルでした。
田中:現在の読書猿さんは学習参考書にまで情報のアンテナを伸ばしていますよね。私の『英文法基礎10題ドリル』をかなり早い段階に「発見」していただいて驚きました。最近の学参で注目しているものがあれば、こちらも科目問わず知りたいです。
読書猿さんと各科目の予備校講師や中学・高校・大学の先生などで「学び直したい大人のためのおすすめの学習参考書リスト」みたいなのを作るのも面白いかもしれないですね。編集部の方、どうですか?
――学習参考書リスト、いいですね! ぜひやりたいです。
読書猿:気になっている参考書は『独学大全』に書いたのですが、それ以外で挙げると、小池陽慈さんの『無敵の現代文記述攻略メソッド』。あとコストパフォーマンスがとんでもない『最新世界史図説 タペストリー』。参考書じゃなくて検定教科書ですが、同じ帝国書院の『新詳 世界史B』は、山川の教科書が「環大西洋革命」とか「近代世界システム」という用語をなんとか使わずに済まそうと要らない努力をしてるのに対して、サクッとこれらの概念を使ってずっと見通しのいい構成と記述になっている。断然おすすめです。
私が学習参考書に注目するのは、学生の方たちというマーケットがあるせいでしょうか、廉価で質の高いものが多いから、という身も蓋もない理由なんですが。でも、実はこの着眼にもネタ本があるんです。さっきも出たエール出版社から、2000年くらいだったか、『中学・高校の勉強をやり直す本 : 大人のための学習参考書採点』という本が出ていた。文字通り、学び直しをやる大人のための、中高参考書のガイドブックです。今、アマゾンのマーケットプレイスだと、ものすごい値段になってます。田中先生がいうように、今こそ必要とされる企画だと思いますね。
「自分から学ぶ子の親」は何をしている?
――受験生の親御さんで、この記事を読んでいらっしゃる方も多いと思います。大学受験に限らず、勉強する当事者である子どもに対して親がすべきこと、すべきではないことは何だと思われますか?
読書猿:できることはあまりないですね。親に限らず、大人たちが若い人を勉強に導くことに失敗するのは、自分だってできれば避けて通りたいと勉強のことを考えているからです。
そういう意味では、大人自身が何かを学ぶのが一番だと思います。若い人は、大人が何を語るかではなく、実際にどうしているか、その行動を見ているのですから。学ぶことがどれくらい楽しく、役に立つ体験であるのか、手本を示すわけです。分からないことがあったり、勉強していて困ったら、現役の学生である彼らに教えを請えばいい。若い人は教えられるのにはうんざりしてますが、自分が教える立場に立つのはまだ新鮮に感じるはずです。
多分、多くの大人たちは、自分は若い人よりも経験とか知識をたくさん持っていて、何か与えることができるはずだと、無自覚に思っている。でも本当に必要なのは、与えることではなく受け取ることであり、答えというより問いの方なんです。
何故なら、コミュニケーションは必ず双方的であり、他人に影響を与えるために人ができる最善のことは、相手から何かをちゃんと受け取ることだからです。
田中:「大人自身が何かを学ぶのが一番」と聞いて思い出しました。私は中学受験指導塾で働いていたことがあるのですが、そこで聞いた「将来自分にも家族ができたら実践したいな」と思ったことを紹介します。
1件目は、毎日夕食後に家族全員で1時間本を読む、というものです。当時小学4年生の女の子が「先生、聞いてください! 今日学校のお友達に『おまえんち、変だぞ』って言われたんですけど、これって他の家ではやっていないんですか?」と打ち明けられました。お父さん、お母さん、お兄さん、そしてその女の子それぞれが毎日夕食後に小一時間、好きな本を読むのだそうです。そしてその後、「今日読んだところにはこんなことが書かれていたよ」と語り合うのだそうです。素晴らしいじゃないですか。
読書猿:ほんとに! おかしいどころか、理想的ですね。
田中:また別のご家族ですが、毎週末に動物園、美術館、科学館、水族館、博物館などを順に回っていると。お父さんが少年の心のまま大人になったような人で、家族の存在を忘れたかのように様々なものを見て楽しんでいるのだそうです。正直なところ経済力がないと厳しいとは思いますが,工夫次第ではインターネットを活用して同様のことを実践できるかもしれません。
どちらのご家庭のお子さんも好奇心が服を着て歩いているような感じで、何を勉強するのも楽しいというオーラを発散していました。
ああそうだ。予備校ではこんなことがありました。今度限定復刊される『伝わる英語表現法』(岩波新書)は私のイチオシ書なのですが、この存在を教えてくれたのはある浪人生で「父の書斎で見つけたのですが、この本どうですか? 受験に役立ちそうですか?」と相談に来てくれたのでした。
大手予備校英語講師
1976年・愛知県生まれ。愛知県立明和高等学校、大阪大学文学部(西洋史)卒。名古屋大学文学部(言語学)中退。著書『英文法基礎10題ドリル』、『英文法入門10題ドリル』、『英文読解入門10題ドリル』は全国の中学・高校だけでなく大学でも採用されている。近年では予備校だけではなく、YouTubeやオンラインサロンなどでも英語学習に役立つ情報を提供している。