パレスチナの地で暮らしていたアラブ人は、突如降ってわいたようなイスラエルの建国宣言に激しく反発した。周辺のアラブ諸国も同調し、エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラクのアラブ連盟5ヵ国がイスラエルと戦火を交えることになった。中東戦争の勃発である。

4度におよぶ中東戦争で
領土を奪われたパレスチナ人

 中東戦争は1948年から1973年までに4回行われたが、いずれもイスラエルが勝利。アラブ諸国は軍備の面でイスラエルに及ばなかった。

 イスラエルは戦争に勝つたびに領土を拡大していく。一方、アラブ人(以下、パレスチナ人)の領土は縮小されていき、土地を失ったパレスチナ人はどんどん追い詰められて難民となった。そして結局、パレスチナの地の大半はイスラエルの領土となり、パレスチナ人の領土はヨルダン川西岸とガザ地区(双方でパレスチナ自治区を形成)だけになってしまった。

 ヨルダン川西岸は三重県と同程度、ガザ地区は東京23区の6割程度の面積しかない。どちらもイスラエルが占領した土地であり、分離壁で囲まれている。つまりパレスチナ人は、このふたつの土地に収容されるような形となったのだ。

 国連は何度もイスラエルの撤退を求める決議を採択したが、実行に移されることはなかった。これに対してパレスチナ人は「インティファーダ」と呼ばれる民衆蜂起を行い、1987年と2000年にパレスチナ側、イスラエル側の双方に多数の犠牲者を出した。

 パレスチナ人はカリスマ性のある最高指導者ヤセル・アラファト議長の下でまとまり、1993年のオスロ合意で暫定自治政府の設立が認められた。これによりパレスチナ問題は解決に向かうかに思われたが、和平路線推進派であるイスラエルのイツハク・ラビン首相が極右のユダヤ人青年に暗殺されたことにより、和平は暗礁に乗り上げてしまう。

 それでも、パレスチナとイスラエルはアメリカの仲介による2000年のキャンプ・デービッド会談などで和平交渉を続けた。しかし物別れに終わり、2014年を最後に和平交渉はストップしてしまったのである。