ロシア・ウクライナ情勢、中国の経済面・軍事面での台頭と台湾・香港をめぐる緊張、トランプ前大統領の動きをめぐるアメリカ政治の動揺、そして日本で選挙期間中に起こった安倍晋三元首相襲撃事件……これらのことを見て、「このままで民主主義は大丈夫か」と不安になる人は、むしろ常識的な感覚を持っていると言えそうです。自由な選挙、非暴力の議論、権力の濫用のない政治と国民すべてに平等な機会がある中での経済発展のような、民主主義がもたらしてくれることを期待されている価値観が崩れかけています。決められない、豊かさをもたらさない延々と議論が続く民主主義でなく、専制的であっても決断力と行動力のある、強いリーダーがいいと考える国も出てきています。それでも民主主義が優れていると言えるのは、なぜなのでしょう? 困難を極める21世紀の民主主義の未来を語るうえで重要なのは、過去の民主主義の歴史を知ることです。民主主義には4000年もの過去の歴史があり、時に崩壊し、そのたびに進化を繰り返しながら進んできました。刊行された『世界でいちばん短くてわかりやすい 民主主義全史』は、現代に続く確かな民主主義の歴史をコンパクトに、わかりやすく解説しています。オーストラリア・シドニー大学の著者、ジョン・キーン教授が、西欧の価値観に偏りすぎないニュートラルなタッチで語る本書は、現代を生きるための知的教養を求める日本人読者にぴったりの一冊です。同書の中から、学びの多いエピソードを紹介します。(訳:岩本正明 初出:2022年8月24日)

プラトンPhoto: Adobe Stock

ギリシャの民主主義者は無知で貧しい人々?

 プラトンは民主主義が二面性を有する統治形態──民衆の資産階級に対する力による支配、もしくは同意による支配──だと指摘したが、権力欲に突き動かされた暴力的不正行為こそが、まさにプラトンが想定していたことだった。

 プラトンにとっては、民主主義は無知で貧しい人々に迎合することで善良な統治を破壊する、見かけ倒しの発明だった。航海術など存在しないと信じている無能者──操舵手を役立たずのスターゲイザー(星をただ見つめる者)として扱う愚か者──が船員として働く船にたとえている。

 プラトンは、劇場支配制という言葉で表現している。大衆が永久不変の政治法則に逆らってあらゆることに口を出す資格を得ることで、公共の利益を気取りながら、力のない者を美辞麗句でそそのかし、力のある者が無法者のように振る舞う統治のあり方を想定していた。デモクラティアとは、表向きは人民が支配しているように見えながら、実際には支配されている偽りの政治なのだ。

 プラトンの見解からわかるとおり、アテネの哲学者はそのほとんどが反民主主義者──民主主義によって培われる平等、不確実性、開放性の精神に対して悪意ある反応をする──だった。民主主義について哲学的に語るには富や余暇を必要とし、政治生活の喧騒から距離を置く必要があった。

 ところが民主主義は、一般市民には公の生活に身を捧げることを要求した。その結果、公務で忙しいアテネの民主主義者は声を上げる暇がないなかで、敵には、タコのように顔に墨を吹きかけることを許してしまったのだ。汚名を着せることによって民主主義者を沈黙させるというのが、反民主主義者が民主主義を破壊するために採用した、記録に残っている最初の手法だった。敵から言葉を奪う一方、実際の功績に関しては酷評するのだ。

 アテネの民主主義者たちは、表現手段として書くという行為をしなかった。そのため歴史的記録という面では、反民主主義者のなすがままだった。こうした理由から、アテネには民主主義を擁護できる偉大な哲学者がいなかったのだ。アテネの民主主義に関するあらゆる文章が、民主主義が持つ目新しさ、特に金持ちの支配に対する大衆の反発を刺激するという側面を敵視していたのも、そうした理由からだ。

 民主主義者は、文章によって自らその価値を擁護しなかったことで、大きな代償を払うことになった。自分たちは女神を味方につけていると固く信じ、民主主義がなくなるリスクを過小評価していた。

 記録という部分に関しては、民主主義という醜いカブトムシを足で踏みつぶすことを夢見ていた貴族階級のなすがままになった。彼らは邪悪なことを考えていた。民主主義者の言葉を後世に残さないようにするために、誰にも記録させなければいいと考えていたのだ。