織田信長が“成り上がり”ではない理由、実は「父と祖父」もすごかったPhoto:Pictures from History/gettyimages

織田信長に「豪快で型破り」「戦の天才」といった印象を持つ歴史ファンは多いだろう。だが実は、信長は一代で成り上がり、天下統一に近づいたわけではない。祖父・信定の時代、織田家の領地は“尾張の端っこ”だった。信定はそこから津島という要地を押さえて名を上げ、商業を支配した。父・信秀は領土をさらに広げて財を成した。信長がいくら戦について先進的な考えを持っていても、実現する財力がなければ話にならなかっただろう。信長の躍進の礎を築いた、父・祖父の知られざる功績を徹底解説する。(作家 黒田 涼)

“風雲児”織田信長は
父と祖父もすごかった

 織田信長といえば、革新的思考によって天下統一を寸前まで成し遂げた異能の人、というイメージが強い。だが、本当に彼一人の才能であの偉業を成し遂げたのだろうか――。そういう視点で考えると、信長が飛躍できる基礎を作った父・信秀、祖父・信定の偉大さがわかる。

 織田信長は地理的に不利だった状況を逆手に取り、領地は狭くとも比類ない財力を手にして尾張の雄となった。その背景には、父と祖父の知られざる努力があった。

 織田信長の祖父・信定の時代、尾張は分裂状態だった。名目上の支配者である守護の斯波(しば)氏の下に、守護代の織田大和守家(清洲城)と織田伊勢守家(岩倉城)が尾張を南北に分ける形で競い合っていた。

 信定は、このうち大和守家に仕える三奉行家の一つにしかすぎなかった。しかもその勢力範囲は、木曽川下流域である海西郡という“尾張の端っこ”だった。この地域は湿地帯が多く、洪水も頻発する生産力の低い地域だった。