黒田 涼

黒田 涼

作家

くろだ・りょう/1961年、神奈川県生まれ。作家、江戸歩き案内人。大手新聞社で記者を16年務めるなど編集関係の仕事に携わったのち、東京に残る江戸の姿を探し出すおもしろさに目覚め作家となり、文章やガイドで江戸の痕跡・史跡を案内している。NPO法人「江戸城天守を再建する会」顧問。著書に『新発見!江戸城を歩く』(祥伝社)『日本百城下町 ゆったり街さんぽ』(笠間書院)など。
歩いて、探して、歴史を発掘する黒田涼|note

源頼朝が恐れた「奥州藤原氏」繁栄を支えた最重要の軍事物資とは?
黒田 涼
源頼朝は1189年に奥州藤原氏を攻めて全国制覇を成し遂げ、1192年、征夷大将軍に就任した。しかし、頼朝が最後まで恐れた奥州藤原氏は、どうしてそれほどの力を「辺境」と言われた奥州で築けたのだろうか。よく言われる「黄金」の力はもちろん大きかったが、実はそれだけではない。背景には、巧みな地政学的戦略があった。
源頼朝が恐れた「奥州藤原氏」繁栄を支えた最重要の軍事物資とは?
京都はなぜ江戸時代になっても廃れなかったのか、千年の都を救った「1人の男」
黒田 涼
江戸時代初期、幕府が江戸に開かれて政治の中心は江戸に移った。実権も財力もない天皇と公家が残っただけなのに、その後の京都は奈良のように寂れてはいかなかった。どうしてだろう?それはある商人が仕掛けた大規模インフラ整備で、「京都」が文化・商業都市として改めて誕生したからだ。彼の名は角倉了以(すみのくら・りょうい)。その開発事業のおかげで、幕末維新の舞台もお膳立てされたと言っていい。
京都はなぜ江戸時代になっても廃れなかったのか、千年の都を救った「1人の男」
伊達政宗、仙台藩を大増収に導いた「すごい戦略」が、悲劇の“お家騒動”を生んだワケ
黒田 涼
小説や歌舞伎の演目などで知られる「伊達騒動」。「独眼竜」伊達政宗で知られる東北地方の名門・伊達家で起こった“お家騒動”だが、この背景をひもとくと意外なことに、日本が明治維新へと“突き進まざるを得なかった実情”が見えてくる。
伊達政宗、仙台藩を大増収に導いた「すごい戦略」が、悲劇の“お家騒動”を生んだワケ
何でそんなこと思いついたの?秀吉が敵をやり込めた作戦が「圧倒的に合理的」だった
黒田 涼
戦国時代の戦(いくさ)と聞いて、あなたはどんな攻防を思い浮かべるだろうか。日本刀で斬り合ったり、矢や銃を撃ち合ったりと、敵軍と「ドンパチ」やり合うのが一般的だと思っているかもしれない。もちろんそれも一理あるが、「水攻め」「兵糧攻め」など戦術は他にもいろいろある。特に豊臣秀吉は「水攻め」の使い手だったとされるが、なぜわざわざ手間をかけて相手の城を水没させようとしたのか。その「深い理由」を探る。
何でそんなこと思いついたの?秀吉が敵をやり込めた作戦が「圧倒的に合理的」だった
「誰、この人?」平安京を造った“気の毒な土木官僚”の正体
黒田 涼
「和気清麻呂」という奈良時代~平安時代に活躍した貴族をご存じだろうか。歴史ファン以外には「誰、この人?」と思われてしまうかもしれない。だが清麻呂は、現場監督として平安京の造都を実行するなど、土木官僚として高い実力を持っていた。それなのに、ほとんど知られていないのは気の毒だ。そこで今回は、清麻呂の功績を振り返る。
「誰、この人?」平安京を造った“気の毒な土木官僚”の正体
出雲の神話「ヤマタノオロチ」は実在した!?現地探訪で気づいたロマンとは
黒田 涼
出雲国(現在の島根県)は多くの神話の舞台となった地域だ。中でも「ヤマタノオロチ神話」や、古代の神が他の土地を切り離して引き寄せ、出雲国の一部にしたという「国引き神話」は有名だ。これらを完全なフィクションだと思っている人は多いかもしれない。だが、実際に現地を探訪し、その地形や自然に触れた筆者は、あながち「全てがウソ」とは言い切れないことに気づいた。その根拠を詳しく解説しよう。
出雲の神話「ヤマタノオロチ」は実在した!?現地探訪で気づいたロマンとは
「上杉謙信・武田信玄一騎打ち」は創作!?川中島合戦“歴史ファン拍子抜け”の実態
黒田 涼
上杉謙信・武田信玄が刃を交えたとされる川中島合戦は、その戦いを巡る伝承の多くが「後付け」とされている。史料には両雄が一騎打ちしたという明確な証拠はなく、武田軍による奇襲作戦「キツツキ戦法」も実在したかは定かではない。本稿では、筆者が現地を探訪して得た知見を踏まえながら、歴史ファンが“拍子抜け”するであろう合戦の実態を解説する。
「上杉謙信・武田信玄一騎打ち」は創作!?川中島合戦“歴史ファン拍子抜け”の実態
反逆者・平将門が関東を「スピード制圧」できた訳、遺跡から探る2つの強み
黒田 涼
かつて「新皇」を名乗って勢力を拡大し、短期間ながら関東を支配した平将門。武士が台頭し始めたばかりの時代に、なぜ将門は関東を「スピード制圧」できたのか。筆者は今回、将門ゆかりの地である茨城県八千代町を訪れ、遺跡や歴史・地理を丹念に調べた。そこからは、将門の急成長を支えた「2つの強み」が見えてきた。その実態とは――。
反逆者・平将門が関東を「スピード制圧」できた訳、遺跡から探る2つの強み
大山古墳に眠る「仁徳天皇」の知られざる功績、大阪の礎を築いたといえる訳
黒田 涼
「仁徳天皇」の名前を聞いたことがある人は多いだろう。歴史の教科書にも載っている日本最大の古墳、大山古墳(大阪府堺市)に眠っているとされる人物だ。だが、その功績はあまり知られていない。近畿地方の歴史をひもとくと、実は仁徳天皇は「大阪の礎を築いた」といえるほど、町の造成やインフラづくりに貢献していたことが分かる。古事記や日本書紀などの記述を踏まえながら、仁徳天皇の知られざる功績に迫る。
大山古墳に眠る「仁徳天皇」の知られざる功績、大阪の礎を築いたといえる訳
吉野ヶ里遺跡に眠る王は「古代中国の伝説の男」か、史料から正体を大胆予想
黒田 涼
佐賀県には「徐福伝説」なるものが存在する。徐福とは、秦の始皇帝の命令で不老不死の仙薬を探しに行き、そのまま国外で王になったとされる人物だ。その徐福が、佐賀県を訪れていたというのである。時代背景を考えると、徐福が中国を発ったとされるのは紀元前210年。佐賀県の歴史的名所・吉野ヶ里遺跡において、「クニ」の始祖となった王の墓が建てられたのも約2200年前であり、つじつまも合う。そこで本稿では、「徐福=吉野ヶ里の王」という新説を大胆に提唱したい。
吉野ヶ里遺跡に眠る王は「古代中国の伝説の男」か、史料から正体を大胆予想
司馬遼太郎『峠』の主人公・河井継之助、戊辰戦争敗北を招いた隣藩との因縁
黒田 涼
新政府軍と長岡藩による北越戦争は、日本史上最大規模の内戦・戊辰戦争の中でも特に苛烈な戦いだった。当時の長岡藩で軍事面の実権を握り、奮戦の末に亡くなったのが河井継之助だ。河井らの奮戦ぶりは司馬遼太郎の小説『峠』で描かれ、役所広司主演で映画化もされた。ここで明暗を分けたのが、長岡藩と同じ越後国に位置するものの、新政府側についた新発田(しばた)藩の動向である。新発田藩の決断の裏側にある、当時の越後国の内情について解説する。
司馬遼太郎『峠』の主人公・河井継之助、戊辰戦争敗北を招いた隣藩との因縁
武田信玄が「信玄堤」の生みの親ではない?歴史の“新説”の有り余る根拠とは
黒田 涼
武田信玄が造ったとされ、長く親しまれてきた「信玄堤」。だが実は、この堤防を信玄が造ったと言える根拠はかなりあやふやである。信玄が堤防を造った記録や設計図などは発見されていない。近年の研究では、壮大な治水システムを戦国時代に実現するのは難しかったことも分かっている。歴史ファンの夢を奪ってしまうかもしれないが、武田信玄が「信玄堤」の生みの親ではないといえる根拠を詳しく解説する。
武田信玄が「信玄堤」の生みの親ではない?歴史の“新説”の有り余る根拠とは
上杉謙信は「義ではなく利」の人だった?越後の端に城を構えた経済的理由
黒田 涼
「越後の龍」「義の人」と呼ばれ、武に秀でて忠義に厚い武将だったとされる上杉謙信。だがその一方で、「利」を得る才覚にも恵まれ、交易を通じて莫大な利益を生み出していた「裏の顔」はあまり知られていない。謙信は越後の中心部ではなく、あえて“端”に城を構えていたが、この不思議な戦略にも、領地から効率よく利益を得るための狙いが隠されていた。その実態を詳しく解説する。
上杉謙信は「義ではなく利」の人だった?越後の端に城を構えた経済的理由
織田信長が“成り上がり”ではない理由、実は「父と祖父」もすごかった
黒田 涼
織田信長に「豪快で型破り」「戦の天才」といった印象を持つ歴史ファンは多いだろう。だが実は、信長は一代で成り上がり、天下統一に近づいたわけではない。祖父・信定の時代、織田家の領地は“尾張の端っこ”だった。信定はそこから津島という要地を押さえて名を上げ、商業を支配した。父・信秀は領土をさらに広げて財を成した。信長がいくら戦について先進的な考えを持っていても、実現する財力がなければ話にならなかっただろう。信長の躍進の礎を築いた、父・祖父の知られざる功績を徹底解説する。
織田信長が“成り上がり”ではない理由、実は「父と祖父」もすごかった
渋沢栄一は「利根川が育てた」といえる理由、なぜ農村育ちで先進的思想を持てた?
黒田 涼
2021年のNHK大河ドラマの主役、そして24年には新一万円札の顔となる大実業家・渋沢栄一。近年知名度が上がっているが、彼の出身地をご存じだろうか?渋沢が生まれ育ったのは、現在の埼玉県深谷市。その市街地から遠く離れた血洗島という農村である。維新後に誰よりも早く近代資本主義精神を身に付け実践した渋沢は、江戸や大阪といった商業の中心地や、商人の多い城下町で生まれたわけではなかった。その渋沢がどうして先進的な思想を体得できたのか。秘密は生誕地近くを流れる利根川にあると筆者は考える。
渋沢栄一は「利根川が育てた」といえる理由、なぜ農村育ちで先進的思想を持てた?
徳川家康の関東国替えは「左遷」にあらず、大河3本を消す大工事で市場開拓
黒田 涼
家康の関東移封は、事実上の「左遷」だったのではないかとよくいわれる。しかし、実のところ、家康が任された江戸という土地は非常に将来有望な場所だった。そんな家康が関東で推し進めたのが、治水と新田開発だ。家康が始めた「大改造」によって、現在の関東地域は形作られたのだ。その軌跡を追っていこう。
徳川家康の関東国替えは「左遷」にあらず、大河3本を消す大工事で市場開拓
伊達政宗が百万石領地を実現できた意外な訳、「3度失敗」した武将の逆転劇
黒田 涼
歴史ファンからも根強い人気を誇る伊達政宗。勇敢な戦国武将としてのイメージが強い政宗だが、悲願だった「百万石」の領土獲得を戦国時代に成し遂げることはできなかった。しかし、その後の半生で与えられた領土を地道に改革。見事、「百万石」を達成している。知られざる政宗の後半生についてひもとこう。
伊達政宗が百万石領地を実現できた意外な訳、「3度失敗」した武将の逆転劇
260年難攻不落だった江戸城、無血開城の裏にあった「苦しい事情」
黒田 涼
「城は攻められたら終わり」の発想で、優れた多重防衛システムを築き上げた江戸城。今回は、その城郭としての強みについて見ていこう。一方で、鉄壁の守りを固めていたはずの江戸城は、なぜいとも簡単に降伏したのか。その背景についてもひもといてみたい。
260年難攻不落だった江戸城、無血開城の裏にあった「苦しい事情」
江戸城が天守を失っても200年攻められなかったワケ、驚異の防衛システムのすごみ
黒田 涼
前回の記事で、「城は攻められたら落ちる」の発想のもと、川や山地といった地形も活用し「多重防御都市」を造り上げた江戸の防衛システムのすごみについて解説した。今回はもう少し視野を狭めて、防衛の観点で緻密に設計された江戸という街を見ていこう。
江戸城が天守を失っても200年攻められなかったワケ、驚異の防衛システムのすごみ
「最初の天下人」三好長慶の城が地政学的に優れているといえるワケ
黒田 涼
歴史好きの間で近年、戦国大名である三好長慶の注目度が高まっている。研究の進展により、織田信長ではなく、長慶こそが「最初の天下人」だったと言われているのだ。そんな長慶が天下を取ることができた要因を、彼が築いた城から見て取ることができる。長慶の城は、地政学的に非常に優れた役割を果たしていた。現地で分かったそのすごみを紹介する。
「最初の天下人」三好長慶の城が地政学的に優れているといえるワケ
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