全世界で700万人に読まれたロングセラーシリーズの『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』(ワークマンパブリッシング著/千葉敏生訳)がダイヤモンド社から翻訳出版され、好評を博している。本村凌二氏(東京大学名誉教授)からも「人間が経験できるのはせいぜい100年ぐらい。でも、人類の文明史には5000年の経験がつまっている。わかりやすい世界史の学習は、読者の幸運である」と絶賛されている。その人気の理由は、カラフルで可愛いイラストで世界史の流れがつかめること。それに加えて、世界史のキーパーソンがきちんと押さえられていることも、大きな特徴となる。
17世紀フランスにおいて「太陽王」と称されたルイ14世も、そんな人物の一人だ。「朕は国家なり」という名言でも知られるルイ14世。絶対的な権力者だったが、そんなルイ14世をもってしても、嫉妬する大富豪がいた。その名はニコラ・フーケ。一体、どんな人物だったのか。著述家・偉人研究家の真山知幸氏に寄稿していただいた。

太陽王ルイ14世が嫉妬した「大富豪」の悲惨すぎる末路とは?Photo: Adobe Stock

ルイ14世に嫉妬された男

 お金持ちには周囲の嫉妬がつきもの。足を引っ張られたり、あらぬ噂を流されたりすることがあります。

 一方で、桁外れにゴージャスな生活を送っている大富豪に対しては、かえって嫉妬心を抱きにくかったりします。どこか非現実な存在だからでしょう。

 そういう意味では、17世紀のフランスで大蔵卿を務めたニコラ・フーケは本来、嫉妬の対象となるレベルの富豪ではありませんでした。

 しかし、そんな大富豪のフーケに対抗心を燃やした人物がいたのです。

「太陽王」と呼ばれた絶対的な君主、ルイ14世です。

 王をもうらやむフーケは、どのように莫大な富を築いたのでしょうか。

旺盛な野心

 1615年、貴族の家に生まれたフーケは13歳から弁護士として活躍。宰相のジュール・マザランに取り立てられながら、順調に出世していきます。

 野心旺盛なフーケは1650年にパリ高等法院の検事総長の座に就いても、満足することはありませんでした。

 その翌年、40歳のときに資産家の娘と政略結婚を果たしたことで財を築くと、1653年からは大蔵卿も兼任しています。

豪邸を5つも持つ大富豪

 大蔵卿という国家の基金を扱うポジションを得たフーケは、横領や汚職などやりたい放題。

 フーケの私財は、たちまち膨らんでいきました。

 フーケは、パリのサン・トノレ通りに豪邸を構えただけではなく、パリ郊外のモントルイユとサン・マンデにも家があり、さらに、大きな賃貸住宅を市内に5つも所有していました。

 まるで不動産王ですが、どの邸宅も豪華なものだったといいますから、底知れぬ財力です。

 しかし、そんな絶頂期にこそ、落とし穴が潜んでいるのが人生の常。

 フーケの場合もまさにそうだったのです。

あまりにも「豪華な城」

 フーケは1661年8月16日、ヴォー=ル=ヴィコント城で大規模なパーティを開催。その財力を見せつけました。

 会場となったフーケの城は、3つの村を潰して築かれたもので、造園家のアンドレ・ル・ノートルによる華麗な庭園を初めに、城館も、噴水装置も、内装もいずれも超一流によって手がけられました。

 まさに豪華絢爛な城でした。

ゴージャスすぎる食事

 フーケはすべての宮廷人を招待したため、参加者数は実に6000人にも上りました。

 パーティで出された料理が一流だったことはもちろんのこと、純金のテーブルや、6000枚の銀の皿、400個の銀の鉢と隅から隅までゴージャスづくしです。

 さらに、余興では、劇作家モリエールによって書き下ろされた喜劇『うるさがた』が、最新の装置を持つ野外劇場で上演されました。

 参加者たちは大いに魅了されたことでしょう。

男の嫉妬を見誤ったフーケ

 フーケがここまで豪華なパーティにしたのは、親政を始めたばかりのルイ14世がゲストとして訪れたからです。

 ルイ14世は、父のルイ13世が41歳で崩御したため、1643年にわずか4歳で即位。

 母后アンヌ・ドートリッシュが摂政を務めて、マザランが政権を担当することとなりました。

 そのマザランに取り入ることでフーケは出世したわけですが、1661年にマザランが亡くなると、ルイ14世が親政、つまり、配下の大臣などに政治を委ねることなく、自身で政治をとることになりました。

 フーケからすれば、マザランが亡き今、ルイ14世に気に入られる必要がありました。

 パーティはそのための一大イベントだったのです。

 フーケの意気込みは、出席者の一人である詩人のラ・フォンテーヌが友人への手紙でこう書いていたことからもわかります。

「すべての感覚を楽しませてくれるものだった。ごちそうは場所や主人、そして陛下にふさわしいものだった」

 国王が来るとなれば、できるだけ華美にしなければ、という気持ちは当然でしょう。

 しかし、フーケは、嫉妬されるリスクを見誤ってしまったのです。

ルイ14世が囁いた一言

 なにしろ、ヴォー=ル=ヴィコント城は王宮を凌ぐほどの豪華絢爛さでした。

 もともとフーケが汚職を行っているという噂を耳にしていただけに、ルイ14世の胸中は穏やかではありません。

 パーティ中は終始にこやかだったルイ14世ですが、帰りの馬車に乗り込むと、母后にこう言ったそうです。

「フーケは即刻逮捕だ。なに数日あれば、奪いとった金を全部吐き出させてやる」

 パーティの約3週間後の9月5日、ルイ14世に命じられた銃士隊長のダルタニァンによって、フーケは逮捕されてしまいます。

「島」を買う

 もしかしたら、自分の身に何か起きるかもしれない――。

 フーケなりに、そんな不穏な空気は感じていたようです。

 もしものときに備えたフーケが買ったのは、なんと「島」でした。

 その島とは、ブルターニュ半島沖合に浮かぶ、「美しい島」を意味する、ベル・イル島です。フーケは130万ルーブルをはたいて、この島を自分のものにしたのです。

 そして万が一に備えて、フーケはこの島に要塞を作らせました。

 そして「防衛計画書」なるものを作成していたのです。

 ところが、裁判では、その計画書が「フーケは王権奪取を目論んでいたのではないか」と疑われる種となってしまったのです。

「ヴェルサイユ宮殿」の原型

 目立っていたフーケを裁くことで政治の闇を一掃しようとしたのでしょう。

 フーケは公金横領の嫌疑で逮捕されると、財産を差し押さえられ、最終的には終身刑まで宣告されてしまいます。17年間も牢獄で過ごし、そのまま死去しました。

 ルイ14世は豪華絢爛な城がよほど羨ましかったようです。

 フーケ自慢のヴォー=ル=ヴィコント城は、後にルイ14世がヴェルサイユ宮殿を造る際の原型となりました。

 フーケが「男の嫉妬」にもう少し敏感であれば、その運命は変わっていたかもしれません。

世界史を動かすのは「感情」

 世界史を形作るのは、無機質な年号ではありません。

 当時を生きた人々のむき出しの「感情」こそが、歴史を動かします。ルイ14世とフーケとの関係を思えば、そのことがよく理解できるはず。

 世界史を人物の感情で読み解けば、また違った側面が見えてきます。

14歳からの世界史』で、歴史の流れのなかで関連人物を抑えておくと、より重層的に世界史を理解することができることでしょう。

【参考文献】
1)アラン・モネスティエ『伝説の大富豪たち』(阪田由美子、中村健一訳・JICC出版局)
2)鹿島茂『太陽王ルイ14世 ヴェルサイユの発明者』(KADOKAWA)
3)佐藤賢一『ダルタニャンの生涯ー史実の『三銃士』』(岩波新書)