全世界で700万人に読まれたロングセラーシリーズの『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』(ワークマンパブリッシング著/千葉敏生訳)がダイヤモンド社から翻訳出版され、好評を博している。本村凌二氏(東京大学名誉教授)からも「人間が経験できるのはせいぜい100年ぐらい。でも、人類の文明史には5000年の経験がつまっている。わかりやすい世界史の学習は、読者の幸運である」と絶賛されている。その人気の理由は、カラフルで可愛いイラストで世界史の流れがつかめること。それに加えて、世界史のキーパーソンがきちんと押さえられていることも、大きな特徴となる。
そこで本書で登場する歴史人物のなかから、とりわけユニークな存在をピックアップ。一人ずつ解説していきたい。今回は産業革命のまっただなかの19世紀アメリカで「鉄鋼王」として活躍したアンドリュー・カーネギーを取り上げる。貧しい機織り職人の父のもとに生まれたカーネギーは、どのようにして成り上がったのか。著述家・偉人研究家の真山知幸氏に寄稿していただいた。

【大富豪の世界史】巨万の富を稼いだ「鉄鋼王」カーネギーが大切にしていた、たった1つの習慣Photo: Adobe Stock

父親の仕事は激減

 幼少期に体験した理不尽さが、その人物を大きく飛躍させることがあります。のちに「鉄鋼王」となるアンドリュー・カーネギーも、まさにそうでした。

 カーネギーは1835年にスコットランドに生まれました。父は機織り職人でしたが、産業革命の影響で仕事は激減。職を求めて、家族でアメリカに渡っています。

理不尽さに怒り

 しかし、アメリカに渡ってからも、生活の厳しさは変わりません。両親ががむしゃらに働くなか、カーネギーもわずか13歳で、紡績工場で仕事につきます。

 工場では、糸巻きの業務を担当して家計を助けました。やがて、カーネギーは、電信局で配達夫として働くようになります。

 ある日のことです。カーネギーが派遣されている街に、父が自分で織ったテーブル掛けを売るためにやって来ることになりました。

 心躍らせたカーネギーが波止場へ父に会いに行きました。ところが、父の話を聞いて、大きなショックを受けます。お金がないために、船室もとらず、三等客として甲板に座っていたというのです。

 カーネギーはこう思わずにはいられませんでした。

「このような立派な人が、なぜこんな旅をしなければならないのだろう」

忘れられない言葉

 理不尽さに、悔しさがこみあげてきたカーネギー。父にこんな言葉をかけています。

「でもね、お父さん。お母さんとお父さんが、ご自分の馬車を乗り回す日も、そう遠くはないんですよ」

 自分が両親を楽にさせてやるんだ。そんな決意にあふれる言葉です。父のほうはというと、苦しい経済状況のなかで、息子にはたくましく育ってほしかったのでしょう。

 父が息子を褒めることは、めったになかったそうです。

 しかし、このときばかりは違いました。父は息子の手をとって、真正面から見つめて、低い声でこうささやきました。

「わしは、お前を誇りとしているんだよ」

 そのとき、父の頬に涙が一筋伝わったと、カーネギーはのちに振り返っています。

製鉄業でいち早く新技術を導入

 カーネギーはその後も学校教育を受けることなく、ひたすら労働現場でキャリアを積みました。やがて、カーネギーの運命が大きく動き出します。

 ペンシルバニア鉄道で勤務すると、その勤勉さが評価されて、ピッツバーグ地区の監督にまで昇進。十分な稼ぎが得られるようになりました。それでもカーネギーが現状に満足することはありませんでした。

 南北戦争によって、木造の橋が焼け落ち、あちこちで線路が不通になっているのを観て、カーネギーはチャンスを敏感に察知します。

 カーネギーは鉄橋を作る会社を創設。耐久性に優れた鉄製の橋を作り、大きな成功を収めます。

 カーネギーは安価な製法であるベッセマー製鋼法を、アメリカで初めて導入。鋼を安価に、かつ、大量に生産することを可能にしたのです。

「鉄鋼王」として巨万の富を稼ぐ

 製鉄事業への投資で才覚を発揮したカーネギー。28歳の頃には、実に年収の20倍近くの金額を投資で稼いで、実業界でその名を広く知られるようになりました。

 33歳のときには、サラリーマン生活にピリオドを打ち、アンドリュー・カーネギー投資会社を設立。

 その後は製鉄会社のみに集中して会社経営を行い、カーネギー製鋼所は、全米の鉄鋼生産高の50パーセント以上を占めるまでに巨大化していきます。

 成功の道をひた走り、人生が激変したカーネギーでしたが、あの日に父からかけてもらった「お前を誇りとしている」という言葉を、忘れることはなかったといいます。

「父の言葉は私の耳に残って、長い年月にわたって私の心を温めてくれた。私たち親子はよく理解し合っていた」

 カーネギーは自伝でこんなふうに綴っています。機を逃さずに大胆に行動できたのは、父の言葉がいつもカーネギーを後押ししてくれたからかもしれません。

「金持ちのまま死ぬのは恥だ」

 50歳を超えると年収が180万ドルに達したカーネギー。

 1901年には、モルガン財閥に所有の会社を売却しました。経済界からは引退し、これまでの「いかに稼ぐか」という人生から、「いかに使うか」という人生へとシフトしていくことになります。

 カーネギーはこんな言葉さえ残しながら、寄付などの慈善事業に注力します。

「金持ちのまま死ぬのは恥だ」

 カーネギーは、カーネギー・メロン大学、カーネギー・ホールを建設するなど、さまざまな分野で巨額の寄付を行いました。4000以上の教会にオルガンを贈ったこともあります。

 そしていつしかカーネギーは「鉄鋼王」に加えて「慈善王」とも呼ばれるようになります。

 実は、これはかねてからのカーネギーの計画でありました。33歳の時点でカーネギーはこんなふうに書いています。

「33歳で、年収は5万ドル。財産をこれ以上ふやすようなことはせず、余分な金は、毎年、慈善事業に使うことにする」

世界中に図書館を建てた

 なかでもカーネギーが熱心に寄付したのが、図書館です。

 カーネギーはロード・アイランド州の一州以外のすべての州にカーネギー図書館を作るということをやってのけます。

 さらに、イギリス、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、モーリタス、フィジー諸島など国境を越えた支援を行い、世界中に図書館を建てました。

 それもあえて建物の建設費のみを寄付することで、自治体から蔵書の購入費や維持費を引き出すようにしました。

 というのも、最初にかかる費用をすべて寄付してしまえば、一過性の運営で終わる可能性もあります。そうではなく、自分の寄付をきっかけに公金を図書館にあてるという流れができれば、継続的に予算が組まれることになります。

 つまり、ただ単に寄付をして終わりではなく、それが真に社会で活かされるかたちで援助できるように、カーネギーは注意を払っていたのです。

「鉄鋼王」の才を育んだ習慣

 それにしても、なぜ、そこまで図書館にこだわったでしょうか? それはカーネギーの生い立ちと関係しています。

 配達の仕事をしていた少年時代の頃、カーネギーは事務所が閉まるまで労働し、心身ともに酷使されていました。

 学校教育も受けていないうえに、独学で学ぶ時間さえありませんでした。それでも、読書するくらいの時間ならば、なんとか見つけることができそうだとカーネギーは考えます。

 ただ、本を買うお金がありません。そんなとき、ジェームズ・アンダーソン大佐という人物が、400巻にも及ぶ自分の図書を、少年たちのために開放すると発表しました。

 カーネギーは、すぐさま飛びついています。貸出可能な冊数は1冊だけでしたが、カーネギーは大佐に深く感謝しながら、アメリカの歴史を学んだり、シェイクスピア文学を楽しんだりしました。

 そして、得ることのできなかった教育を補って余りある知識を身につけたのです。

 カーネギーが常々言っていた言葉があります。ここには、彼の図書館への思いが凝縮されているようです。

「図書館こそ、わたしの大学だ」 

 父が与えてくれた自信と、読書から得られた豊富な知識。その2つが両輪となり、カーネギーはアメリカン・ドリームをつかむことに成功したのです。


【参考文献】
1)アンドリュー・カーネギー『カーネギー自伝 新版』(坂西志保訳・中公文庫)
2) J・チェンバレン『アメリカ産業を築いた人びと』(宇野博二訳・至誠堂)』