「コーポレートファイナンス」というテーマながら発売直後から多くの読者に絶賛され、Amazonで総合11位(2022年10月24日時)にまで順位をあげた本が、『新解釈 コーポレートファイナンス理論』です。
同書は、なぜここまで熱狂的に評価されたのでしょうか? コーポレートファイナンス、コーポレートガバナンスを専門とする一橋大学・伊藤彰敏教授に、その「価値」を解説してもらいました。

『新解釈 コーポレートファイナンス理論』書影
伊藤彰敏(いとう・あきとし)
一橋大学大学院経営管理研究科 教授
東京大学経済学部卒、慶應義塾大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)でMBA取得、ウェスターン・オンタリオ大学Ph.D.(経営学博士)。国際大学国際経営学研究科助教授、レジャイナ大学(カナダ)助教授、筑波大学准教授を経て現職。2014年FMA Asian Conference共同実行委員長を務める。

はじめに

 長年、ビジネススクールでコーポレートファイナンスを教える身として、どんなアイディアを軸にコーポレートファイナンスを学んだらよいのか、いつも悩むところです。この悩みの原因は、少なくとも2つあります。1つ目は、コーポレートファイナンスは、その内容が多岐にわたるということです。2つ目は、コーポレートファイナンスは企業における職能の1つであり、企業経営の全体像とのリンクが必ずしも明瞭ではないということです。

 ところが本書は、なんとこの2つの課題を実に鮮やかにクリアして見せてくれるではありませんか! 早速、いくつかの例をご紹介しましょう。

企業価値評価における時間軸、ポートフォリオ理論における時間軸

 コーポレートファイナンスの内容は多岐にわたると書きましたが、コーポレートファインナスを体系的かつ整合的に学ぼうとする際に、おそらく最も違和感があって、しかも最初の方に出てくる難関が、企業価値評価とポートフォリオ理論をどう組み合わせて理解するかという問題だと思います。さらにはポートフォリオ理論で一気にテクニカルな内容になるので、初学者はこの最初の難関で躓きやすいようです。

 企業価値評価は、コーポレートファイナンスの主要なテーマの1つです。今日まで色々な手法が考案されていますが、広くコンセンサスを得ている手法は割引現在価値法です。この手法は、企業が将来の各期にもたらすキャッシュフローの予測値を適切な資本コストで割り引いて現在価値に換算するというものです。企業は、一般に長期にわたって活動を継続することを前提としますので、当然のことながらキャッシュフローの予測も何年かの期間にわたって行われます。つまり企業価値評価における時間軸は、多期間であり相当に長いということになります。

 一方、コーポレートファイナンスでは、資本コストを算定するための理論的なベースとして、ポートフォリオ理論(資産評価理論を含む広い意味でこの言葉を使います)の知見を活用します。ポートフォリオ理論は、資産運用にあたってリスクと期待リターンのバランスを取り、ポートフォリオを最適化することを主眼として発展した分野です。ポートフォリオ理論には非常に洗練された数理的モデルとして多期間最適化モデルが存在しますが、コーポレートファイナンスで活用する場合は、基本的に現在と未来の2期間しか取り扱いません。言い換えれば、ポートフォリオ理論の時間軸は、非常に短いということです。

 時間軸の長さに関する企業価値評価とポートフォリオ理論のずれに、私も含め多くの人が戸惑いを感じるようです。企業価値評価は、事業の多期間にわたるキャッシュフロー流列(りゅうれつ)を考え、どうやって大きな現在価値を引き出すかという問題に取り組んでいるのに対し、現在価値算定において重要な役割を果たす資本コストの算定には、きわめて短期間(現実的には1年間)の枠組みしか用いられていないのですから、それは違和感があるでしょう。この「ずれ」は、ポートフォリオ理論が、資本コスト算出というコーポレートファイナンスの要請に基づいて発展したわけではないという歴史的な経緯から生じています。

2つの時間軸Photo: Adobe Stock

 本書は、このやや不幸な歴史的な経緯にめげることなく、企業経営者の観点を失わずに、かつ資金を資本市場から調達している立場から、事業のリスクの意味を検討していきます。そして資本市場から資本コストに関する情報を引き出すツールとして、ポートフォリオ理論における知見を導入するのです。私は、本書のこうしたアプローチに接し、まさに目が覚めるような思いでした。確かに、適切な資本コストをどう算定するかという問いを明確にし、その問いにこだわった視座からポートフォリオ理論を学んだ方が、コーポレートファイナンスに必要な理解の程度は格段に上がるものと思います。

競争圧力と価値創造

 コーポレートファイナンスは、純現在価値(割引現在価値から投資支出を差し引いたもの)が正であるプロジェクトに投資し続けることにより企業価値が拡大すると主張します。しかし学問としてのコーポレートファイナンスは、そうしたプロジェクトをどう生成したらよいかについては多くを語りません。

 一方、コーポレートファイナンス以外の分野では、価値創造につながると思われるプロジェクトの生成やその特徴について議論する分野があります。経営戦略論は、まさに競争優位という概念を用い、価値創造をもたらすであろう事業戦略について議論を展開しています。ただし戦略的意思決定の結果、実施されるプロジェクトが生み出す価値は本当にポジティブなのか、どれくらいの大きさになるのか、プロジェクト間にどの程度の連動性があるのかといった経済性の検討は、必ずしも明示的に議論されません。

 本書は、コーポレートファイナンスにおける純現在価値の考え方と、経営戦略論における競争優位を確立するための知見とをリンクさせることの重要性を説いています。本書では、「完全市場」という言葉が頻繁に登場します。この言葉の意味するところは、財・サービス市場においては、企業間の絶え間ない競争により、いかなる超過利益もそれを縮小させる力が働くということです。このような厳しい競争圧力が長期的に作用する中、そうした力に抗う方法こそが経営戦略論における競争優位であるということになります。こうして本書は、価値評価の背後にある現実の経営意思決定の困難さや複雑さをビビッドに描き出します。

 さらに本書は、競争優位の最も強力な源泉は、技術的なものだけではなく経営技法にまで至る広い意味でのイノベーションであると論じます。イノベーションは、競合がキャッチアップするまでの間、導入者に一種の創業者利得をもたらします。これが価値創造の仕組みです。本書の基本的なメッセージは、コーポレートファイナンスにおけるプロジェクトの価値評価は、イノベーションによって競争優位を生み出す仕組みの深い考察を伴うべきであるということです。逆にいうと、イノベーションと競争からの防御の検討無しに、単に数値上、プロジェクトの純現在価値を計算してみても意味がないということです。

経営理念やビジョンの大切さ

 本書は、その結論にあたるエピローグで、経営理念やビジョンの重要性を説いています。一見、コーポレートファイナンスから遠いこれらの概念を、しかも本書の結論で強調するのはなぜでしょうか。

 コーポレートファイナンスの価値評価の背後には、競争優位の確立を目指し価値創造の仕組みを作るための懸命の努力があることは前述しました。本書は、その議論をさらに遡り、価値創造の試みを束ね方向付ける動力として、経営理念とビジョンの大事さを説いているのです。今日、企業が競争優位を築くには、経営資源の徹底した効率活用が求められます。もし経営理念やビジョンが明確でなければ、価値創造の試みをタイトに統合することは困難になるでしょう。人的資本の重要性が高まっているという背景も、このことを後押ししています。

 本書は、なんのために価値創造を行い(経営理念に対応していると思います)、それによって社会をどういう方向に導こうとしているのか(ビジョンに対応していると思います)、これらを明確にした上で、末端の構成員に至るまで共有し、組織として追求している時、はじめてコーポレートファイナンスは血の通った経営支援の道具としてその機能を発揮するのだと説いています。

 経営理念とビジョン、これらは長期の時間軸に基づいて考えるべき事柄です。まさに長期の視点に立つからこそ、コーポレートファインナスがフルにその効果を発揮するものと思います。この点、昨今、注目を集めるROICや、かつて脚光をあびたEVAなどの指標は、基本的に2期間で考えるツールであり、注意しないと他期間に及ぶ経営上の問題の複雑さを見誤ってしまうでしょう。こうした点についても、本書は的確な警鐘を発しています。

おわりに

 本書は、私が冒頭に提唱した問い、どんなアイディアを軸にコーポレートファイナンスを学んだらよいのかについて、クリアな答えを示してくれています。現代の企業組織が経営理念とビジョンを共有し、価値創造の仕組みを作り出すという視点を軸に据えるということです。また本書は、適格で身近な例をたっぷりのユーモアと巧みなレトリックで繰り出し、ポイントを解りやすく伝えるだけではなく、読者を楽しませることにもとても成功しています。

 ということで僭越ではありますが、私は、一応、長年奮闘してきた「教えるプロ」として、本書のどこが素晴らしいのかをこの機会にみなさんにぜひお伝えしたいと思い、本稿を執筆させていただきました。ありがとうございました。