2代将軍秀忠に代替わりした1605年には、五街道の標準幅員を5間(約9m)、1里(約4km)ごとに塚を築くと定められ、並木も植えられた。また、1630年代には砂利や砂を敷いて路面が平らに固められた。

 東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までの五十三次・約495km、大坂までの4宿も加えて五十七次ともいった。中山道は高崎、下諏訪、木曽路を経て草津までの六十七次・508km、それに草津、大津2宿を加えて六十九次。日光街道は千住、宇都宮、今市を経て日光までの二十一次・130km。奥州街道は陸奥白河までの二十七次・190kmで、宇都宮までの17宿は日光街道と重複していた。甲州街道は内藤新宿、八王子、甲府を通り、下諏訪で中山道に合流するまでの四十四次・220kmだった。

江戸時代の五街道と宿場数

 東海道は天下の大動脈として、幕府が最も重視した幹線道で、とりわけ取締りも厳しかった。「入鉄砲出女」には特に目を光らせた。入鉄砲は、江戸に武器が入ってくることの取締りだ。出女は諸大名の妻子たちの、江戸からの脱出を監視することである。徳川幕府が参勤交代の制度をとったのも、諸国の統制と国家の安泰が最大の目的だった。参勤交代とは、諸国の大名を一年江戸に参勤させ、次の一年を在国させるというもので、大名の妻子たちは人質として江戸に常住させられた。徳川幕府が300年近くも続いたのは、参勤交代の制度があったからだといわれている。