1999年、若きイーロン・マスクと天才ピーター・ティールが、とある建物で偶然隣り同士に入居し、1つの「奇跡的な会社」をつくったことを知っているだろうか? 最初はわずか数人から始まったその会社ペイパルで出会った者たちはやがて、スペースXやテスラのみならず、YouTube、リンクトインを創業するなど、シリコンバレーを席巻していく。なぜそんなことが可能になったのか。
その驚くべき物語が書かれた全米ベストセラー『創始者たち──イーロン・マスク、ピーター・ティールと世界一のリスクテイカーたちの薄氷の伝説』(ジミー・ソニ著、櫻井祐子訳、ダイヤモンド社)がついに日本上陸。東浩紀氏が「自由とビジネスが両立した稀有な輝きが、ここにある」と評するなど注目の本書より、内容の一部を特別に公開する。のちにシリコンバレーのすべてを作っていく「ペイパルマフィア」たちが20代だったころに始めた冒険とは?

世界一の成功者たちが「20代でやっていたこと」とは?Photo: Adobe Stock

語り始めたイーロン・マスク

「おいおい、君のせいで屋根裏を引っかきまわす羽目になったぞ」

 とイーロン・マスクは言った。

 私たちが座っていた場所はマスクの自宅のリビングルームだったが、それでもこのたとえはしっくりきた。マスクは私にペイパルの物語を語ってくれようとしていたのだ。

 時は2019年1月。マスクが二十数年前に共同創業したペイパルは、彼の記憶の片隅に追いやられていてもおかしくなかった。

 この前日、マスクは2003年から経営している電気自動車会社、テスラモーターズの大規模な一時解雇(レイオフ)を発表し、1週間前には2002年に創業した航空宇宙メーカー/宇宙輸送サービス会社、スペースXの10パーセントの人員削減を発表したばかりだった。

 混乱の渦中にあるマスクが、昔のことをどれだけ語ってくれるのか不安はあった。語り尽くされた話でお茶を濁され、追い払われることも覚悟して、私はインタビューに臨んだのだった。

 だがインターネットの発展やペイパルの起源を語るうちに、マスクから物語があふれ出した。カナダの銀行での初めてのインターンのこと、一つ目と二つ目のスタートアップのこと、CEOの座を追われたときの気持ち……。

 3時間が過ぎ、そろそろ夕方になろうとするころ、私はここでいったん終わりにしようと提案した。インタビューは1時間の予定だった。マスクが貴重な時間を割いてくれたのはうれしかったが、迷惑はかけたくなかった。

 だが玄関まで歩く間にも、マスクはまた別のペイパルの物語を語り始めた。47歳のマスクは、輝かしい過去の話をせがまれた老人のように熱っぽく話した。「もう20年も経ったなんて信じがたいな!」

「ペイパルマフィア」と呼ばれる人脈集団

 たしかに信じがたかった──歳月の経過だけでなく、ペイパル出身者がその間に成し遂げた業績もだ。

 過去20年間にインターネットに触れたことがある人は、ペイパル出身者とゆかりのあるプロダクトやサービス、ウェブサイトを何かしら利用しているはずだ。

 ユーチューブ、テスラ、スペースX、リンクトイン、イェルプ、パランティアなどの現代を代表する諸企業をつくったのは、ペイパルの初期社員だ。グーグルやフェイスブック〔現メタ〕、シリコンバレーの主要ベンチャーキャピタルなどの要職に就いた出身者も多い。

 ペイパル出身者はこの20年間、シリコンバレーのほとんどの主要企業の創設、資金提供、支援に、あらゆるかたちで関わってきた。

 彼らは史上最強のネットワークを築き、その力と影響力は「ペイパルマフィア」という物騒な呼び名によく表れている。ペイパルから数人のビリオネアと数多くのミリオネアが生まれ、彼らの純資産の合計はニュージーランドのGDPさえ超える。

 その活躍は、資産を築きテクノロジーを動かすだけに留まらない。ペイパル出身者は画期的なマイクロレンディング(小口融資)のNPOを設立し、製作した映画で賞を総なめにし、ベストセラーを執筆し、州議会から連邦政府までの政治家に助言を与えている。(中略)

マスクとティールが手を組んだ

 いま知られているペイパルは、二つの会社が合体して生まれた。

 一方の会社、フィールドリンク(のちにコンフィニティと改称)は、1998年にマックス・レヴチンとピーター・ティールという無名の二人が設立した。コンフィニティはやがてお金とメールを結びつける「ペイパル」の枠組みを開発し、オークションサイトのイーベイの利用者に熱狂的に受け入れられた。

 だが当時、デジタル決済を手がける企業はコンフィニティだけではなかった。

 イーロン・マスクが最初のスタートアップを売却した直後に立ち上げたX.com(Xドットコム)も、メール送金サービスを提供した。ただ、そのサービスはマスクの当初の野心的な構想とはかけ離れていた。

 マスクはX.comを足がかりに、金融サービスに革命を起こそうとした。X.comを「すべての金融商品・サービスをまとめて提供し業界を支配する、アルファベット一文字のウェブサイト」として打ち出した。だが紆余曲折の戦略転換ののちに、金融サービス全体に切り込む踏み台として、コンフィニティと同じオンライン決済市場を狙うことにした。

 コンフィニティとX.comは、イーベイでの決済のシェアをめぐって競争心を燃やし、死闘を繰り広げ、ついには苦渋の合併に至った。

 その後の数年間、合併後の会社ペイパルは、存続の危機にさらされ続けた。

 ペイパルは当初から訴訟や不正利用、模倣に苦しめられ続けた、四面楚歌のスタートアップだった。数十億ドル規模の巨大金融機関や手厳しいメディア、懐疑的な世間、敵対的な規制当局、海外の不正者と戦った。たった4年の間に、ITバブルの崩壊と州検察当局の捜査、自社の投資家によるプロダクトの模倣を経験した。(中略)

世界制覇か死か──「世界制覇指数」を見つめながら働く

 そうした荒波をさておいても、社内は混乱に満ちていた。

「ペイパルをマフィアと呼ぶのはマフィアへの侮辱だよ」と初期の取締役ジョン・マロイは笑う。「マフィアはわれわれよりずっとうまく組織化されている

 ペイパルは当初の2年間で経営陣が2度も総退陣をちらつかせ、3人のCEOを経験した。

 ペイパルのシニア幹部は、従来の意味での「シニア」ではなかった。創業者や初期社員の大半は20代で、ほとんどが新卒だった。

 社員が若いこと自体は、ひと稼ぎをもくろむ若い技術者であふれていた90年代末のシリコンバレーでは珍しくなかった。

 だがペイパル社員は、シリコンバレーの基準からいっても異端だった。初期社員には高校中退者やチェスの名手、パズルのチャンピオンがいた──奇行や奇癖にただ寛容というだけでなく、それを積極的に受け入れる土壌があった。

 ある時期、オフィスの壁にはその日の利用者数を示す「世界制覇指数」が表示され、ラテン語で「メメント・モリ」(「死を忘ることなかれ」の意)と書かれたバナーが貼られていた。ペイパルの異端者たちは、「世界制覇か死か」というほどの覚悟だった。

 部外者は、おそらくは「死」のほうになるだろうと予想した。

 90年代末当時、オンライン商取引の電子決済比率はわずか10パーセントで、まだ郵送小切手が決済の大半を占めていた。人々はまだクレジットカードや銀行口座などの個人情報の入力に不安を感じていた。ペイパルのようなサイトは、マネーロンダリングや、麻薬や武器の密輸などの不正との関わりが懸念された。

IPO直前に大事件が発生

 ペイパル上場前夜、ある有力な業界紙は、わが国にとってペイパルのIPO(株式公開)など、「炭疽菌の流行」と同じくらい不要なものだとこきおろした。

 もっとも、辛口の報道は見過ごせばいいかもしれない。しかし世界を揺るがす大事件は無視できない。創業者たちがペイパル最大の勝利になるはずのIPOの最終条件を詰めていたそのとき、2機の飛行機がニューヨーク上空を横切り、世界貿易センターのツインタワーに激突した

 ペイパルは2011年9月11日の同時多発テロ事件後、初めてIPOを申請した企業となった。国と金融市場がようやく攻撃から立ち直ろうとし始めたころのことだ。

 IPO直前には数々の訴訟を起こされ、世間で大規模な不正会計スキャンダルが続発した煽りを受けて、証券取引委員会(SEC)の厳しい監視にもさらされた。殺伐とした合併、不正利用による数千万ドルの損失、テック株に厳しい市場環境といった数々の障害を乗り越えて、ペイパルは不可能を成し遂げた──IPOを華々しく成功させ、そして同年、イーベイへの15億ドルでの売却を果たしたのだ。

(本原稿は、ジミー・ソニ著『創始者たち──イーロン・マスク、ピーター・ティールと世界一のリスクテイカーたちの薄氷の伝説』からの抜粋です)