元夫が彼女に投げかける言葉や、会話の展開をコントロールすることはできない。彼の攻撃は悪天候と同じで、荒れ模様が予測できることもあるが、何の前触れもないこともある。だがその後、自分の気分が悪くなることは、はっきりしている。だから、それを変えることにした。
目標は「元夫について考えないようにすること」。
エイミーは夫の行動をきっかけとして利用し、こんな計画を立てた。元夫に言い負かされたり攻撃されたと感じたら、すぐに自分にとって心地よいことをする。
お気に入りのバンドのニューアルバムを聴く、時間がなくて聴けずにいたオーディオブックを聴くといったことだ。ときにはスターバックスまで車を飛ばし、大好きなコーヒーを飲むこともあった。
その日のうちに自分のために貴重な時間を少しだけ確保するようになって、エイミーはこの習慣が二重の恩恵をもたらすことに気づいた。
彼女は自制心を取り戻すと同時に、自分に心地よいこともできるようになったのだ。
「侮辱されたと感じたら、自分のために心地よいことをする」これが彼女にとって功を奏した習慣のレシピだ(下図参照)。
相手ではなく「自分」をコントロールする
このレシピを実践するようになって、彼女は元夫に侮辱的な言葉を返すことも、攻撃されたと感じることもなくなった。代わりに心の中でこうつぶやくのだ。
「また侮辱だ。ずっと観たかったあの映画を観れるわ」
彼女は夫に反論せず、別れの言葉を告げたら自分のことに集中し、その夜の計画を立てた。
おかげで一日が台無しになることはなくなった。いつの間にか、元夫とのやりとりを頭の中で繰り返すことがなくなり、彼の侮辱が思いがけない贈り物のように思えてきた。何といっても、自分をいたわるきっかけを与えてくれるのが彼なのだから。
おかしな理屈だとわかっているが、厳しい状況をできるだけおおらかに考えるのは、困難を切り抜けるのに役立った。
できることなら、エイミーは自分にこんな思いをさせる相手とは関わりたくなかっただろう。しかし私たちは、ストレスをもたらす相手や状況のすべてを人生から排除できるわけではない。ときには不公平な扱いをする相手や神経を逆なでする相手、態度の悪い相手にも我慢しなくてはならない。
だが、私たちは自分自身についてはコントロールできる。エイミーはそれをうまく実現した。他者の行動が自分を傷つけるようなものでも、それをあえて健康的な反応を引き出すきっかけとして用いるのは素晴らしいアイデアだ。自分が無力だと感じる多くの状況で効果を期待できる。
さらに、エイミーは前向きな影響が、自分が思っていたよりはるか遠くまで波及したことにも気づいた。週に一度、父親と会うことになっていた子どもたちが、顔を合わせた両親の言い争いに巻き込まれずにすむようになり、ストレスが和らいだようだった。
また彼女が得た心の平穏は、元夫にも変化をもたらした。まるで彼の怒りの詰まった風船から空気を抜いたような感じだった。嫌みを言われることもあったが、もうそれほど辛辣ではなかった。彼女は久しぶりに、いつか友だちになれる日が来ればと願った。あるいはせめて、共同養育者としてうまくつき合えるようになりたいと思った。
人は「心地よさ」によって行動を変える
最近、あるプロジェクトを手伝ってもらおうと彼女に電話したところ、末娘の卒業パーティを元夫と一緒に開いたばかりだと教えてくれた。素晴らしいことだけど、それは驚きだと言うと、彼女は少し笑って言った。
「真面目な話、私たちがいちばんびっくりしてるのよ」
いったいどうしてそうなったのかと聞くと、彼女は思いやりと関係があると答えた。彼の否定的な行動を前向きな行動を取るきっかけにしたことで、彼女は前より幸せになり、相手を思いやる心の余裕が生まれたのだ。
屈辱と落胆にまみれた世界から抜け出すと、物事を明晰に考えられるようになった。
そして、元夫が彼女とちがって人づきあいのスキルをあまり磨いてこなかったことに気づいた。結婚しているあいだは、彼が他人とうまくつき合えるように彼女があいだに立っていた。
ところが離婚後はすべて自分でどうにかするしかなかった。それが彼にとって難しいことだとわかったので、エイミーは彼を思いやるようになったのだ。
私たちは、相手がはっきり意思表示しなくても、自分がどう思われているのかわかるものだ。
エイミーは元夫が彼女の態度の変化と、その背後にある思いやりの気持ちを感じ取り、彼自身も変わり始めたのではないかと考えている。
また彼女によると、これはまったく予期せぬことだった。自分をいたわる習慣を身につけたときの彼女は、ただ自分自身を守り、ひどい状況を変えようとしていただけだったのだから。
(本原稿は『習慣超大全──スタンフォード行動デザイン研究所の自分を変える方法』(BJ・フォッグ著、須川綾子訳)からの抜粋です)
スタンフォード大学行動デザイン研究所創設者兼所長
行動科学者
大学で教鞭をとるかたわら、シリコンバレーのイノベーターに「人間行動の仕組み」を説き、その内容はプロダクト開発に生かされている。タイニー・ハビット・アカデミー主宰。コンピュータが人間行動に与える影響についての実験研究でマッコービー賞受賞。フォーチュン誌「知るべき新たな指導者(グル)10人」選出。スタンフォード大学での講座では、行動科学の実践により10週間で2400万人以上がユーザーとなるアプリを開発、リーンスタートアップの先駆けとして大きな話題になった。教え子からインスタグラム共同創設者など多数の起業家を輩出、シリコンバレーに大きな影響を与えている。『習慣超大全──スタンフォード行動デザイン研究所の自分を変える方法』はニューヨークタイムズ・ベストセラーとなり、世界20ヵ国で刊行が進んでいる。
須川綾子(すがわ・あやこ)
翻訳家
東京外国語大学英米語学科卒業。訳書に『EA ハーバード流こころのマネジメント』『人と企業はどこで間違えるのか?』(ともにダイヤモンド社)、『綻びゆくアメリカ』『退屈すれば脳はひらめく』(ともにNHK出版)、『子どもは40000回質問する』(光文社)、『戦略にこそ「戦略」が必要だ』(日本経済新聞出版社)などがある。