今、世界的に注目を集めているのがエピクテトスという奴隷出身のストア派哲学者だ。生きづらさが増す現代において、彼が残した数々の言葉が「心がラクになる」「人生の助けになる」と支持を集めている。そのエピクテトスの残した言葉をマンガとともにわかりやすく紹介した『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業』が日本でも話題だ。今回は、本書の中から、「何事に際しても『私はそれを失ってしまった』とは決して言うな」というエピクテトスの言葉を紹介する。

哲学者は「つらい別れ」をどう考えるか? 意外な答えPhoto: Adobe Stock

人生で最大の悲しみの一つは「愛する人との別れ」

 何事に際しても「私はそれを失ってしまった」とは決して言うな。

 人生で遭遇する様々な不幸の中で、何が最大か――。そう問われたら、「愛する人との死別」がその上位を占めるに違いない。

 死の悲しみが、生前に故人とどれだけ親密な関係を取り結んでいたかに比例することを考えれば、家族の死、しかも老齢の両親ではなく若い妻子の場合はその最大値であろう。

 別れの相手は、必ずしも人間とは限るまい。ペットを飼っている者にとって、最もつらくて嫌な経験は、飼っている動物の「死」であろう。また、自分が毎日愛用している道具が壊れることもそうかもしれない。たとえ生命のないモノであっても、自分の身体の延長のような感覚を持つことは少なくない。

 人生は、様々な出会いと別れとで織り成されている。出会いの喜びはすぐにはわからないが、別離の悲しみはダイレクトである。

「失った」のではなく「返した」

 だがエピクテトスは、「別れ」に対して究極的な見方の転換を示唆する。「失った」のではなく「与えられていたものを返した」だけなのだ、と。

 では一体、誰が与えてくれたのか?

 エピクテトスの答えは「神」である。

 現代人にとって「神」を持ち出すことは難しいかもしれない。「自然」や「宇宙」と言い換えても必ずしもピンと来ないだろう。

 しかし、ここには「所有」という考え方についての根本的な見方の転換が示されている。所有しているものは、初めから自分自身の外側にあるものだから、しょせんいつかは失う可能性があるということだ。

 動物や道具も含めて、我々は有限な存在であり、何かを失ってしまう経験は避けられない。所有しているものは、いつかは失われるのだ。しかし、我々は「失った」と思うと心に大きな空白を抱え込んでしまい、なかなかその悲しみから立ち直ることができない。

 そんな時に、エピクテトスが示すように、財産はもちろんのこと、自分の家族、生命など、これらを自分が所有しているものではなく「一時的に貸与されているもの」と考えると、人生をどう見るかについて、まったく新しい展望が開けてくる。

(本原稿は、『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業』からの抜粋です)