坂上田村麻呂の遺物「日本中央の碑」は本物か、青森の巨石に刻まれた謎を検証筆者は青森へ飛び、この石に刻まれている文字をその目で確かめた  Photo by Satoshi Tomokiyo

青森県・東北町に保存されている「日本中央」と刻まれた謎の石碑。「日本中央の碑(いしぶみ)」と呼ばれるこの巨石、実は平安時代に征夷大将軍を2度務めた武官・坂上田村麻呂が遺した伝説の「つぼのいしぶみ(壺の碑)」ではないかといわれている。それが事実なら国宝級の歴史的遺物といえるが……。碑にまつわる伝承とその背景を探る旅に出た。(フリーライター&エディター 友清哲)

平安時代から語り継がれる
「つぼのいしぶみ」

 坂上田村麻呂といえば、いまからおよそ1200年前の平安初期に、征夷大将軍として蝦夷(現在の東北地方より北に住み、中央政権に屈することを拒否していた集団)を討伐した人物としてよく知られている。

 その坂上田村麻呂について、歌学者の藤原顕昭が12世紀末に編さんした『袖中抄』の中に、次のような記載がある。

《陸奥の奥につぼいしぶみあり、日本の果てといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付たれば、石文といふといへり》(『袖中抄』19巻)

 現代語に訳すと、『日本の東の果てに「つぼのいしぶみ」というものがあり、それは坂上田村麻呂が弓のはず(弦をかける部分)を使って「日本中央」と彫ったものである』となる。

坂上田村麻呂の遺物「日本中央の碑」は本物か、青森の巨石に刻まれた謎を検証平安時代の武官にして、初代・征夷大将軍の坂上田村麻呂 


「つぼのいしぶみ」とは「壺の碑」、あるいは「坪の碑」と表記され、坂上田村麻呂の活動時期から、9世紀初頭のものと考えられている。これまで寂蓮法師や藤原顕昭など、多くの歌人が作品の中で歌枕として「つぼのいしぶみ」に触れていることから、和歌に明るい人には聞き覚えのあるキーワードかもしれない。なにしろ、かの源頼朝までもが「陸奥の磐手忍はえそ知ぬ 書尽してよつぼのいしぶみ」と詠んでいるほどなのだ。

 東北地方の歴史家たちの間では長らく、「つぼのいしぶみ」の所在を巡って議論が重ねられてきた。しかし、これはあくまで古典にひも付く架空の物という考え方もある。

 実際、先に触れたいくつかの歌においても、「つぼのいしぶみ」を「行方の知れないもの」「はるか遠くにあるもの」として扱っていることから、ある種のロマンの象徴と化している節すらある。

 ところが――1949(昭和24)年、青森県の東北町という地域の川沿いから、表面に「日本中央」の文字が刻まれた高さ1.5メートルほどの自然石が発見されたことから、にわかに論争が活発化する。