「すべての科学研究は真実である」と考えるのは、あまりに無邪気だ――。
科学の「再現性の危機」をご存じだろうか。心理学、医学、経済学など幅広いジャンルで、過去の研究の再現に失敗する事例が多数報告されているのだ。
鉄壁の事実を報告したはずの「科学」が、一体なぜミスを犯すのか?
そんな科学の不正・怠慢・バイアス・誇張が生じるしくみを多数の実例とともに解説しているのが、新刊『Science Fictions あなたが知らない科学の真実』だ。
単なる科学批判ではなく、「科学の原則に沿って軌道修正する」ことを提唱する本書。
その中から、今回は内容の一部を抜粋・編集して紹介する。
TED出演、7350万回以上再生された「パワーポーズ」
ハーバード大学の心理学者エイミー・カディは、2012年にTEDトークで「パワーポーズ」を提唱して一躍有名になった。
面接などストレスのかかる場面の直前に、1人になれる場所(たとえばトイレの個室)で2分間、足を開いて両手を腰に当てるなど、開放的で広がりのあるポーズを取る。
このような力強い姿勢は、心理的にも、ホルモン的にも、あなたを高めてくれる。
カディらが2010年におこなった実験では、パワーポーズを取った人は、腕組みをしたり前かがみになって座ったりした人に比べて、力強さを感じるだけでなく、賭け事でリスク許容度が高くなり、テストステロンの値が上昇して、ストレスホルモンであるコルチゾールの値が低下したという。
2分間のパワーポーズで「人生の結果を大きく変える」ことができるというメッセージは人々の心に響いた。カディの講演はTEDトーク史上2番目に多い視聴回数を記録し、総視聴回数は7350万回を超えた。
科学者チームの力では「再現できず」
2015年に刊行された著書『〈パワーポーズ〉が最高の自分を創る』(邦訳・早川書房)はニューヨーク・タイムズ紙で自己啓発書のベストセラーリストに入った。出版社によれば、この本は「プレッシャーの高い瞬間に、不安から(私たちを)解放する」ことができる「魅惑的な科学」を見せてくれた。イギリスの保守党はカディのメッセージを真剣に受け止めたようで、さまざまな会議やスピーチで仁王立ちになった政治家の写真が次々に公開され、笑い種になった。
ところが2015年、ある科学者のチームが「パワーポージング効果」を再現しようとしたときに問題が起きた。
ポーズを取った本人は「より力強さを感じた」と報告したが、「テストステロン、コルチゾール、金融リスクに対するパワーポージング効果を確認することはできなかった」のだ。
「もう『パワーポージング効果』が本物だとは信じていない」
この、「パワーポージング効果」という概念の大流行は、2010年に発表された再現性のない論文にもとづいていた。
パワーポーズと言えば心理学者のエイミー・カディと思われているが、実は、論文の筆頭著者はカリフォルニア大学バークレー校のダナ・カーニーだった。そのカーニーは2016年に、パワーポージングに関する見解を変えるという声明を発表した。
彼女は何年もかけて自分の考え方を更新し、本人の言葉を借りれば、もう「『パワーポージング効果』が本物だとは信じていない」。彼女はさらに、オリジナルの実験に関するいくつかの事実(42人という「小さな」サンプルで、効果の大きさも「ほとんどなかった」)を列挙した。
心理学研究の再現性が失われた要因
このような再現性の危機を招いたのは、心理学という学問に何か特異な性質があるからだと思いたくなるかもしれない。
そもそも心理学者の仕事は厄介だ。さまざまな個性や背景、経験、気分、癖を抱えていて、とても変わりやすく、とても複雑な人間を理解しようというのだ。研究の対象となるのは思考や感情、注意、能力、知覚など、基本的に形がないもので、実験室での実験で特定することは、不可能ではないにしても難しいものばかりだ。
社会心理学ではさらに、これほど複雑な人間同士の相互作用を研究する。心理学の研究が複雑であるという事実が、心理学の発見の信頼性を、ほかの科学に比べてことさら複雑にしているのかもしれない。
心理学の多くの研究は研究者が興味を持った現象の表面をかする程度だが、ほかの「難しい」科学、たとえば物理学では、すでに理論が確立していて、より正確で純粋な客観的計測がおこなわれる。
ただし、再現性の問題を抱えているのは心理学だけではない。ほかの科学でも、心理学ほど体系的かつ詳細に再現率を調べていないが、かなり多くの分野で同じ種類の問題が垣間見えるのが現実だ。
(本稿は、『Science Fictions あなたが知らない科学の真実』の一部を抜粋・編集したものです)