「ホラ、ゆういち、行くぞ、早うせんか」
酔った父から散々暴力をふるわれて裸足で玄関を飛び出した母が、路面電車通り沿いの親戚の家に飛び込んだ(電車に飛び込まなくてよかった<笑>)翌朝の光景。
堅く決心した母の声と、天草に渡る船を待つ埠頭の待合室の景色は60年近く経った今でも覚えている。
その日の事を父は短歌にこう記している。
石の如き心を持ちて故郷に妻子等去りし家の戸を開けぬ
妻が子を負ひつつ埠頭に立つ姿ありありとして瞼に見ゆ
母は何度か故郷天草に逃げ帰り、その都度祖父母から説得されて、米や味噌などを抱え長崎に戻って来た(笑)。
日の差し込む玄関を出て行こうとする母子(おやこ)に60年後のハゲた息子が声をかける。
「明日母ちゃんは入院ばい、母ちゃんに残る時間が豊かで穏やかに過ぎて行くごと、祈っとってくれんね」
不思議そうにこっちを振り向く赤ん坊。
仏間からくぐもった声が聞こえて来るので、そっと覗くと、うなだれたように仏壇に向かって座っている細い影がある。小さい震える声で一心に念仏を唱えている。酒で荒れた翌日の若い日の父だ。
父の背中に声をかける。
「父ちゃん、母ちゃん明日入院ばい。60年後のあんたの奥さんの手術が上手くいくごと祈ってくれんね」
応えるように父の念仏はひときわ大きくなる。