「まだその頃、強かった時代はそこまでではなかったのかな?まだお客さんが入っていたかな、という思いはあるけど、阪神に比べるとね。(中日優勝の)合間合間(2003、2005年)に阪神が優勝してるでしょ?僕らはその時の甲子園の雰囲気を知っているわけじゃないですか。勝てばこんなに人が入る、でも負けたらひどいよな、みたいなね。それがはっきりしているじゃないですか」

 甲子園で感じた“熱”を、福留はあの頃の名古屋で感じられなかったのだ。星野の下で3年、落合の下で4年、福留はプレーしてきた。

「その人の中での当たり前が、周りの人からしたら当たり前じゃないところもあるじゃないですか。星野さんは、自分の当たり前じゃなく、その地域、その場所での当たり前を通してきた。そんな気がする。星野さんってホントにこの名古屋という地を理解してやっていた。タイガースに行った時には大阪の、楽天に行った時には東北の地域性を理解していた。だから中日の監督、阪神の監督、楽天の監督の時、全部別人ですから。でも落合さんは、自分のやってることが当たり前。それを押し通したんです」

 荒木雅博、井端弘和の“アライバコンビ”も、落合の猛ノックと高い打撃センスで成長してきた森野将彦も、落合政権下でのエースだった川上憲伸も、チームリーダーだった立浪和義、そして福留孝介も、星野政権下のドラフトでプロ入りした選手だった。福留孝介を外野へコンバートし、谷繁元信がFAで横浜(現DeNA)から移籍してきたのは、山田久志が監督の時だ。

 星野が種をまき、山田が水をやり、いよいよ花を咲かせようという時期だった。

 その“旬”を見逃さず、力のある選手たちに、猛練習という肥料を与えて、さらに成長させた。その手腕には恐れ入る。