「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

三流の会社員は「出世で先を越された同僚や後輩」の部下になることに抵抗する。では、超一流の会社員は?Photo: Adobe Stock

抵抗する者
最後に切腹

前田利家(1538~99年)は、戦国時代から安土桃山時代の大名。尾張(愛知西部)の豪族の出身として織田信長に仕え、数々の戦で活躍する。槍の名手であり、通称が又左衛門であったため、「槍の又左」とも称された。織田家のなかでは、北陸の担当であった重臣・柴田勝家(1522?~83年)の配下にあった。しかし、本能寺の変(1582年)で信長が死んだ後、柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉の戦い(賤ヶ岳の戦い・1583年)では秀吉側に寝返り、秀吉の勝利に貢献。その功により、金沢を与えられる。秀吉とは織田家のころから親友であったことから、秀吉政権では天下統一を支え、その政務にあたった五大老の1人となる。秀吉はその死に際し、遺児となる豊臣秀頼(1593~1615年)のことを利家に委ねた。秀吉の死後、台頭する徳川家康をけん制するものの、秀吉の死から8か月後に病死。利家の死後、江戸時代に入り、前田家は加賀百万石として、全国最大の石高を誇った。

貧しい農民の子として生まれた豊臣秀吉と、豪族の生まれである前田利家との間には、もともと大きな身分格差がありました。

本来であれば、利家は秀吉の出世にわだかまりを抱いても、なんら不思議ではありません。

実際、利家と同じく勝家の配下にいた佐々成政(?~1588年)という武将は、秀吉の家臣となることをよしとせず、長いこと抵抗しました。

結局のところ、敗れて秀吉の家臣になりますが、肥後(熊本)の支配を任されながらも失敗し、最後は切腹してしまいます。

「律儀さ」こそ
最強の武器である

それに対して利家は、秀吉の出世に大きなわだかまりを抱くこともなく、友情を保ちつつ、比較的スムーズに主君と家臣の関係に移行しました。

そして、家臣として利家は秀吉の天下統一を支え続けたため、秀吉は利家に対して大きな領土と五大老という重臣の立場を与えたのです。

晩年に至るまで利家に対する秀吉の信頼は揺らがず、遺言のなかで利家を「律義者(正直者)」と評価し、自分の子である豊臣秀頼を託すまでになります。

わだかまりを抱かず
長い繁栄につながる

残念ながら秀吉の死(1598年)の直後に利家も亡くなりますが、豊臣政権下で大きな力をもっていた前田家を徳川家康も軽く扱うことはできませんでした。

前田家は加賀百万石の当主として、江戸時代を生き抜きます。出世競争には負けた前田利家でしたが、秀吉との友情を大事にして、与えられた立場で懸命にとり組みました。

その結果として、滅亡した豊臣家よりも長い繁栄を前田家にもたらしたのです。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。