2017年10月28日、「Q」と名乗る人物がインターネットの匿名掲示板「4ちゃん(4chan)」に、「ヒラリー・クリントンは2017年10月30日月曜日の朝、東部時間午前7時45分から8時30分の間に逮捕されるだろう」との最初のメッセージを投稿した。その後、Qのメッセージ(「ドロップ」と呼ばれる)はトランプ政権内部の有志が、匿名掲示板を通して秘密の情報を提供しているのだとされ、その解読を試みる匿名(アノニマス)ユーザーのネットコミュニティ、すなわち「Qアノン」が誕生した。

 それから3年2カ月ほど経った2021年1月6日、「選挙は盗まれた」というドナルド・トランプの呼びかけに集まった支持者たちが連邦議会議事堂を占拠し、混乱のなかで警官を含む5名が死亡した。群衆のなかには「Q」のプラカードを掲げる者が多数おり、射殺された退役軍人の女性がQアノンの信者だったことも明らかになって、この奇妙な陰謀論は世界中の注目を集めることになった。

トランプ氏を熱狂的に支持した「Qアノン」たちは、どのように誕生し、アメリカ社会にどんな影響を与えたのか?Photo/146 / PIXTA(ピクスタ)

Qアノンによる「ディープステート」という物語

 ウィル・ソマーはアメリカのジャーナリストで、ピザゲート(ヒラリー・クリントンの選挙関係者がワシントンのピザ店の地下室で児童に対する性的虐待や人身売買を行なっているという陰謀論。2016年12月、これを信じた男がライフル銃をもってピザ店に押し入り、店内の壁やドアなどに発砲した)に衝撃を受けてネットの陰謀論に関心をもち、Qアノンを草創期から追跡しはじめた。連邦議会議事堂襲撃事件を受けて刊行した『Qアノンの正体 陰謀論が世界を揺るがす』(西川美樹訳、秦正樹解説、河出書房新社)はその取材の集大成だ。

 マイク・ロスチャイルドも同じくアメリカのジャーナリストで、2018年1月にQアノンと出会った。ジョン・マケイン(2008年の共和党大統領候補。民主党候補のバラク・オバマに敗れた)とヒラリー・クリントンがともに医療用のブーツを履いていたことがネットで話題になっていることに困惑して、「なぜこんなことで大騒ぎしているのだろう」とツイートしたところ、Qのフォロワーからすかさず答えが返ってきた。マケインとクリントンは踵を怪我しているのではなく、すでに逮捕されていて、国外逃亡を防ぐための機器を足につけられており、それを隠すために医療用のブーツを履いているのだという。

 このやり取りに興味をそそられたロスチャイルドはQアノンについての記事を書き、それを読んだ多くのQアノンの家族から相談を受けるようになった。その経験は『陰謀論はなぜ生まれるのか Qアノンとソーシャルメディア』(烏谷昌幸、昇亜美子訳、慶應義塾大学出版会)にまとめられている。

 ソマーもロスチャイルドも、「Qとは何者か?」という謎に多くのページを割いてはいない。より重要なのは、「Qアノンという現象」だからだ。このことは次のように説明できるだろう。

 アメリカ社会は、ワシントンやウォール街のエリート、ハリウッドのセレブリティのように、リベラルな知識社会に(過剰に)適応した「勝者」と、高卒や高校中退の白人の労働者階級(しばしば“ホワイト・トラッシュ=白いゴミ”と侮辱される)などの「敗者」によって分断され、それが経済格差の拡大として表われている。

 2016年の米大統領選で、リベラルなエリートを代表するヒラリー・クリントンはトランプに熱狂する白人労働者階級を“deplorable(嘆かわしい、みじめな)”と呼んだ。そのヒラリーを、「不当に低く評価され、馬鹿にされている人物、人種差別主義者であり、政治の素人であり、冗談としか思えないと片付けられてしまうような」(自分たちによく似た)トランプが打ち負かすという“奇跡”が起きた。

 支持者たちはこれによってアメリカ(と自分たちの境遇)が大きく変わるはずだと興奮したが、いつまで待っても彼らが望むような歴史の大転換が起きる気配はなかった。ここで支持者たちは、「トランプはしょせんまがい物」と見捨てることもできただろうが、そうなるとなんの希望もない世界に逆戻りしてしまう。

 この居心地の悪い状態(認知的不協和)を解消するには、「トランプはアメリカを変えようとしているが、思い通りにいかないのは“悪の組織=ディープステイト”がそれを阻んでいるからだ」という物語をつくり出せばいい。

 Qと名乗る人物の謎めいた投稿(ドロップ)は、トランプ政権発足から10カ月というちょうどいいタイミングで、この物語に格好の材料を提供した。もしQが存在しなくても、あるいは話題にならなくても、いずれQアノン的な物語が別のところから現われたはずなのだ。