「人生を左右する究極の質問がある」
そう語るのは、起業家・UUUM創業者である、鎌田和樹氏だ。2003年に19歳で光通信に入社。総務を経て、当時の最年少役員になる。その後、HIKAKIN氏との大きな出会いにより、29歳でUUUMを設立。「ユーチューバー」を国民的な職業に押し上げ、「個人がメディアになる」という社会を実現させる。2023年にUUUMを卒業後、初となる著書『名前のない仕事 ── UUUMで得た全知見』では、その壮絶な人生を語り、悩めるビジネスパーソンやリーダー層、学生に向けて、歯に衣着せぬアドバイスを説いている。この記事では、本書より一部を抜粋・編集し、これからの時代の「働く意味」について問いかける。(構成/ダイヤモンド社・種岡 健)
最初で最後の「ズル休み」
入社初日のことを、僕は一生忘れないと思います。
出勤日、指示されたオフィスに向かいました。
しかし、「光通信」という文字がどこにもありません。
そこには、「ニュートン・フィナンシャル・コンサルティング」と書いていました。
光通信はさまざまな業種に子会社を持っていました。
ニュートン・フィナンシャル・コンサルティングは、保険の販売代理店でした。
僕はよくわからないまま保険を売る会社に入社しました。
説明を聞き、研修を受け、マネジャー(一般的には課長)にランチに誘われました。
その人は、ストライプのグレーのスーツにグッチのベルト、茶髪でモヒカンのような髪形でした。
オフィスの目の前の中華料理屋に連れて行かれて、まだ緊張感のある僕の前でこう注文しました。
「大将! ビール!」
衝撃的でした。昼からビールを飲みながら仕事するものなのか。
いろいろな疑問が頭をよぎります。
目の前でビールをグビグビと飲む先輩を、ただただ見つめながら、僕は黙々と食べました。
そんな状態のまま、僕はいち営業マンとして(コールセンターですが)、保険の営業をスタートさせました。
最初の電話なんて何を話したのか覚えていません。それくらい緊張しました。
当時のテレアポシステムは、パソコン上でボタンをクリックすると自動で電話がかかってヘッドセットで話しはじめる仕組みでした。
たしか、タウンページの連絡先をデータ化したものでした。
昔は、みんなでタウンページの最初の「あ行」から電話をしていたみたいで、「さっきも同じ会社から電話ありましたよ」なんて言われることもざらでした。
「〇〇さん、いらっしゃいますか?」
と、何が正しいのかもわからないまま、電話をかけ続けました。
保険を売るということについては、僕はあまり優秀ではありませんでした。
まったくできないわけではないけど、人に自慢できるほど契約を獲得できたわけではなく、モチベーションも高くなかったです。
心が折れる音がした
そして1ヶ月ほどが経ったとき、ある事件が起こります。
いつも通り、テレアポシステムのボタンを押して、トゥルルルルル。ガチャ、
「あ、Aさんのお宅でよかったでしょうか? わたし、保険代理店のニュートンの鎌田と申しますが、Aさんいらっしゃいますでしょうか?」
と、いつものマニュアル通りに話しました。
「はい。Aですか? どのようなご用件でしょう? また面識はあるのでしょうか?」
と、女性の方が返してくれました。
僕は、アドリブで返事をします。
「はい、わたし以前に一度、Aさんとお話しさせていただいたことがありまして、その件でご連絡しました」
「Aは、2年前に他界していますが、どのようなご用件でしょうか?」
「……あ、そうですか……。それでは大丈夫です、失礼しました」
その瞬間、僕の心が折れた音がしました、ポキッと。
もうすべてがどうでもよくなるような気持ちでした。
もちろん、連絡先の中には、もう亡くなっている方がいるのはわかっています。
しかし、それでも平気でこんなトークをしている自分は一体なんなのか。
そこからのその日の仕事の記憶はありません。
気がつけば家にいました。
そして翌日、僕は会社には行きませんでした。
折れた心は簡単に元に戻らなかったのです。何も考えずに、会社にも連絡せずに、普通に休みました。ズル休みです。
学校とは訳が違います。
会社から電話がかかってきたはずですが、僕は出ませんでした。
いわゆる「飛んだ」ってやつです。
ボーッと1日、テレビを見て、ごはん食べて、寝て、会社のことなんて一切考えず、2日、3日が経ちました。
ふとしたときに、「あー、また就職先を探さないとなー」と考えるくらい。人として「無」の状態で過ごしました。
こうやって休んだことは、後にも先にも、この一度だけです。
ここが「人生の分岐点」かもしれない
休んでから4日ほど経ったでしょうか。
その日、知らない番号から電話がかかってきて、それに出ると、光通信本体の人事部からでした。
すごく優しい声で、「違う部署で働かないか?」という連絡でした。
さて、今となって考えれば、採用した社員が無断で辞めていくことは、人事としての評価では非常にまずいことです。
そのことを差し引いても、僕はそのとき電話をくれたことに感謝しています。
呼ばれたのは、光通信本体があった「光センタービル」の人事部でした。
そこで少し話した後に、こんな案内をもらいました。
「光通信本体の総務部総務課が人員を探しているようで、そこでよければ面接をつなぎますが、興味ございますか?」
そのときの気持ちは、「バックれた人にチャンスをくれるなんて、どんだけいい会社なんだ!」というものと、「総務課って何するんだろう? ショムニのこと?」という素直な感情が混じり合っていました。
結果的に、面接の機会をもらい、総務課で働くことになりました。
それから長くお世話になる上司とも出会いました。
ちなみに、総務に異動して以降、光通信を辞めるまでに出会った上司は全員が素晴らしい人たちでした。
そこで聞かれたことは至極シンプルでした。
「鎌田くんは、スペシャリストとゼネラリストだったら、どっちになりたい?」
そのときは、「できることがたくさんあったほうがいいな」と思って、「ゼネラリストです」と答えました。
人生を変える二択
それを踏まえて、あらためて質問です。
「スペシャリストとゼネラリストだったら、どっちになりたいでしょうか?」
どうやら今は、20代でやりたいことを決めてしまうような時代です。
総合職より専門職。
メンバーシップ型よりジョブ型。
それは、メリットとデメリットがあります。メリットは、なんといっても、「やりたいことができる」ということ。回り道をしなくて済みます。
デメリットは、あなたに秘められた他の可能性に気づけないこと。
これは、じつは大きいのではないかと思います。
自分が希望していない部署に行くくらいなら、「転職」を選びたくなるかもしれません。
でも、チャンスと思って、少しでもいいから、やってみてほしいのです。
もしかすると、面白さに気づけるかもしれない。
「やってみたら、じつはよかった」と思えることが、この世には山ほどある。
「あのとき回り道してよかった」そう思える人生が、たくさんあるのです。
さて、「ゼネラリストの道を選んだんだ」という何気ない選択が、僕にとっては大きな分岐点となりました。
この二択はどこかのタイミングで考えていいのかもしれません。
もし、スペシャリストの道を選んでいれば、その後、ユーチューバーの存在を知っても、「自分もクリエイターになりたい!」という憧れになっていたかもしれない。
それくらい、自分の仕事へのスタンスを試す質問だったのです。
(本稿は、『名前のない仕事 ── UUUMで得た全知見』より一部を抜粋・編集したものです)
起業家、UUUM創業者
2003年、19歳で光通信に入社。総務を経て、店舗開発・運営など多岐にわたる分野で実績をあげ、当時の最年少役員になる。その後、孫泰蔵氏の薫陶を受け、起業を決意。ほどなくして、HIKAKINとの大きな出会いにより、2013年、29歳でUUUMを設立。「ユーチューバー」を国民的な職業に押し上げ、「個人がメディアになる」という社会を実現させる。2023年にUUUMを卒業。『名前のない仕事 ── UUUMで得た全知見』(ダイヤモンド社)が初の単著となる。