福島の物語に起承転結の「結」はない

和合 開沼さんの『フクシマの正義』(幻冬舎)はとてもいいタイトルだと思いました。

開沼 ありがとうございます。

和合 大の大人が正義について語り合うなんて、普通ならあり得ないですよね。僕は昨日、六本木にいましたけど、六本木では誰も正義なんて語れていないですよ。だけどね、どんどん減っていく子どもたちに、正義、「フクシマの正義」をどう見せるかということが重要な思想の根本だと思います。

 今はみんな日本全国グダグダですから。グダグダというより、考えられずにいますよね。だけど、我慢して我慢して助走を続けていく。今の状態を続けていかざるを得ないなかで、それでも目を背けずに向き合っていくことです。

 公園に大きな穴を掘って、そこに除染した土を埋めて覆いかぶせることは絶対におかしいんですよ。それを当たり前だと思ってしまったら我々の負け、我々自身が蹂躙されてしまいます。起承転結の「結」を迎えるということは、牙を抜かれることになってしまいます。最後まで今を今として見つめ続けなければいけません。

開沼 『漂白される社会』で僕が言っていることは、和合さんがおっしゃった通りの話をしているつもりです。「あってはならぬもの」を「見て見ぬふり」する現代社会、というキーワードを何度も出しているんですけど、「見て見ぬふり」をして「これは終わった話だ、みんなでそのあとを見とこうぜ」としてしまう欲望とは何かを明らかにしたい。

 社会の周縁的な部分や弱い部分を切り離し、固定化することによって、何となくみんなが幸せになれる。そういう構図が現代社会の様々な側面に広がっている印象があります。本を書きながら、「それでいいのか?」と問い続けなければならない、僕がやりたいことはそれなんだなと思いました。

 繰り返して「起承転転」という言葉を使った背景について聞いてしまいますが、きっと和合さんにも、この2年間で「結」を導こうとする動きへの違和感がずっとあったのだと思います。『起承転転』というタイトルにしたのは、そこがポイントだったんじゃないですか?

和合 震災以降、福島の物語として起承転結が描かれて続けています。だけど結末は、「結」はないわけですよね。僕は、西のほうにも講演に行きますが、そこでは福島の復興は進んでいるという印象なんですよ。

開沼 なるほど。

和合 福島大学の天野和彦さんと話をしたときのことです。彼は避難所で自治組織をつくりました。その後、被災者が仮設住宅に移っていく様子を見ています。みんなが仮設住宅に移るって決まったときに「良かったね、これで復興がひとつ進んだね」と言われたそうです。「和合ちゃん、ガッカリしたよ。復興進んでるって言われたんだよ」って電話をくれました。

 仮設住宅に移れたから進展した。そこで起承転結を迎えて、どうしても次に進んだと見ちゃいますよね。それが西の人だったらなおさらでしょう。なんでもそうなんですけど、結局は不条理なことにフタをして、次に進んできた国民性なのかもしれませんね、日本は。そんなことを考えもしなかったですよ、震災前は。いろんな活動をしていましたけど、平和でしたよね、世の中が。